3月11日14時46分

2011年3月11日14時46分、わたし「えちから」は自宅の2階、自分の部屋にいました。向かう方向こそ違いますが、ちょうどこの文章を書いている場所です。

揺れ始めたとき、名古屋近郊の民がまず思うのは「ついに東海地震が来たか」ではないかと思います。そのときの自分も同じで、ここから大きな揺れになるのではないか。そう考えつつ、落ちてくるものがないか周りをみつつ身をこわばらせました。

しかし揺れは一定のまま、しかし長く長く続きます。何かがおかしい。揺れが収まったところで下の階に向かい、火の元とテレビの情報を確認しに行きました。

最初に見たのは中京テレビ(日テレ系)の映した、お台場の火事の様子。それを見ていた父親の了解のもとNHKにチャンネルを変え、情報を取り込むことに集中します。震源は宮城県沖。当時「今後30年で起こる可能性が99%」といわれていた「宮城県沖地震」ではないかと感じました。そして震度7の情報、テレビで速報されたはじめての「震度7」、とんでもないことが起こっていると。

今となってはどうとでも言えますが、そのとき「福島第一原発」も脳裏に浮かんでいたはずです。問題隠しとか、その以前に報道されていましたからね。でもあそこまで事故が拡大するとも思っていませんでした。

そして15時40分~50分ごろでしょうか、NHKが伝える北海道~関東の津波の様子に、そして名取川を遡上する津波を捉えたヘリ空撮に、心がざわめきました。おそらく歴史に残る映像であると同時に、直接地震・津波の被害を受けていない「傍観者」である自分たちであっても、恐怖を覚える映像。

あれから、ちょうど10年が経ちました。

旅行など行けるような費用はなかなか捻出できる家庭ではなく、なかなか東北には足を伸ばせません。被災地の実感、ってものは正直自分のなかには想像し得ないものかと思います。当時仙台にいた知り合いの話を聞いても、その体験は私のなかの「実感」には伴いません。

ただ、自分の人生は少なくとも、あのタイミングで変わったことはあると。

当時、「Line」という小説をブログで書いていました。ただ、携帯電話を無くした(正確には持ち去られた)ことで連載は止まっていたものの、まさに冒頭は「地震」を扱う内容。気になったことは調べ直しましたし、実際にどう動くのか、それを改めて最初から改めて書き直した新「Line」へと落とし込みました。

しかしそれが、自分のできる精一杯だったのです。

その後大学でも報道に携わった人から、当時の話を聞きました。地震の揺れの真っ最中を捉えた各テレビ局の映像も見させていただきました。

そして自分へ力を与えた作品にも、「東日本大震災」の影響は少なからずあるでしょう。「シン・ゴジラ」はあのときの政府の動きも少なからず資料に取っていますし、「東北ずん子」は復興支援キャラクターとしての役割もあります。そのような直接的なものに限らず、触れてきた演劇も、小説も、一見関係ないように見えて、影響を受けているでしょうね。

自分を、日本に住む皆を変えた東日本大震災。

東北の復興はまだまだ途上。日本のどこかで毎年地震が起こっている状況を踏まえれば、それに終わりなどはないかもしれません。

ただ、今は犠牲になった人々への、これからを生きていく人々への祈りを捧げます。お金も力もない自分にはそれくらいしか出来ることはありませんが、心から哀悼の意とこれからへの決意を込めて。

今でもときどき、地震発生時の映像を見ます。あのとき思ったことを忘れないために。

いつか起こるであろう「東海・東南海地震」、それはもしかしたらより大規模な「南海トラフ地震」として、わたしの住む名古屋周辺にも大きな被害を与えるかもしれません。そのとき何ができるか、今日もまた、明日もまた、思い返すことでしょう。

10年目のこの日、この時間に、この文章を捧げます。