コトネアスター

「そうね、それでいいと思う」
 ごめん、と彼は言った。うん、もう判ってた。浮気していたことくらい、お見通しよ? ずっと見ていたらすぐに解る。解っていて、それでも言わなかったのに。それでも戻ってきてくれると信じていたのに。バカみたいな期待だったけど。
 告白してきたのは彼の方からだった。といっても私の方も気になってはいた。ただ向こうが早かっただけだ。私に告白するような勇気があるかといえば、ない。でも向こうが言ってこなかったら、私の方から言うことになったかもしれないなということは思ったことがある。
「じゃあ明日学校でね。──あくまで友達として」
 ごめん、と彼はもう一回言った。判ってるから、もう謝らないでよ。悪いのはそっちなのに、こっちまで悪いような感じになってしまう。被害者がどっちなのか、原因を作ったのはどちらなのか、判らなくなってしまう。もしかしてそれが狙い? なんて考えると嫌いになってしまうから。
 上社駅・一番ホーム。夕日が眩しい時間。名古屋駅の方からやってくるステンレス製の、黄色い帯の入った電車がひっきりなしにやって来て人を運んでくる。その人混みに紛れ、彼を振り切って、私は階段を降りた。いつもはここから反対方向の電車に乗って折り返すんだけど、今日はそんな気分じゃない。だから改札を出ていく。マナカ定期券から二百三十円分引かれたけど、知ったことじゃない。そんなちっぽけなお金、捨ててしまおう。
 改札を出ると、右手に大きな吹き抜け。ガラス張りの天井から、光が差し込む。ちっちゃなコンビニと、全国チェーンの古本屋とレンタルビデオ店の合同店舗・そして市営バスのターミナルが片隅にある。ただそれだけの、全体的には地味目な駅。繁華街に接する駅ではないし、まあこんなものか。
 今まで来たことのない街だが、とりあえず歩いてみることにした。住宅街の真ん中って感じの駅で、店自体はあるもののその数は少ない。駅の反対側は違うかもしれないが、行ってみる気はしなかった。私はただ、歩いてみたかったのだ、この街を。お店巡りがしたい訳でもないし、この街のいい所をあえて探すというようなこともしたくない。今日別れた彼の住む街。当分は来ないだろうから。わざわざ嫌な思い出を掘り返したりはしない。それが快楽に転ずる人もいるかもしれないが、私はしない。
 しばらく進むと大きな道路に突き当たった。高速道路が高架から地上、そして地下へとおりていくその場所。歩いてきた方の道は高さ制限がかかるアンダーパス構造になっていた。一旦下がって上り坂じゃ、疲れるだけで面倒くさい。こちらの、大きな道の方に沿って歩いていこう。そう思って坂を下りず、右へと歩いていく。
 国道三〇二号・環状二号線。高速道路の方は「名古屋第二環状自動車道」という長い名前。スマートフォンで地図を確認すると、そう出ていた。高速道路ではない方の道も片側二車線、さらに側道が付いている。この名古屋という都市の周囲を一周する環状道路とテレビで聞いたことがあった。何でこんな大規模な道路が必要なのかは判らないが、必要だから作ったのだろう。全く無駄なものを作る訳がない。いくら国が無能だとしても。
 さらに歩く。すると道の反対側に青いコンビニの看板が見えた。次の信号を入ったところにあるみたいなので、まずはその交差点の所まで行く。
 その交差点は広かった。高速道路が地下から出てくる、その始まりの場所だからだ。しかもその高速への出入口がすぐそばにある。その分だけ道幅が、正確には中央分離帯が広いのだ。現に片方の車線だけ渡ったところで、信号が変わってしまった。
 その広い中央分離帯には花が植わっていた。薄い赤色の花が僅かな風に吹かれ、ふわふわと揺れる。それが可愛らしくて、ついつい近づいていく。
 その部分は公園として扱われているらしく、石を加工して作り付けられたベンチが設けられていた。「都市景観賞受賞」らしきことも書いてあったが、私にとってそれはあまり重要ではない。私にインパクトを与えたのは、この赤の集団だった。
 「コトネアスター」。この花の名前はそう言うらしい。花壇にささったプレートに書いてある。偶然にも、私の名前は「琴音」。琴音・ア・スター。何か、かっこいい。勇気が出てくるような名前。本来の意味など調べたらこの感動が薄れてしまうだろう。だから調べない。現実なんて、そんなものだから。
 彼が告白して来たとき「僕はコトネだけが好きだ。それ以外の女の子を好きにはならない」と言われた。そんなこと解らないじゃない、と思う前に「なんてロマンチック」と思う自分がいた。その言葉通りなら一生、私と向き合っていく覚悟があったはずなのに。じゃあ何で裏切ったの、と考えると「明日からはただの友達として」と言った自分の言葉を守れない方向に陥る気がして、私は考えるのを止めた。考えるのを止めて、このコトネ達をぼんやりと眺める。しがらみに捕われていない、この子達を。
 赤い戯れを眺めているうちに、辺りはすっかり暗くなってしまった。赤い戯れのキャストは、私の真下を通っていく車のテールランプへと代わる。柵越しに見えるそれらはそのうちにたくさん連なっていって、渋滞の列へと姿を移す。渋滞の列に変わると、それはますます明るくなった。でも、ブレーキランプが点滅しても、そこにメッセージは埋まっていない。見ず知らずの他人だらけだから、当然だが。
 とりあえずさっき見つけたコンビニに行こう。私は立ち上がった。赤い点の集合が消え青の点の集合が光り出すのを待って、横断歩道を渡る。
 そのコンビニには「手作り弁当」があった。そのコンビニチェーン内では県内で唯一その店だけ、店内で作っているらしい。せっかくだから買ってみることにした。買って、またあの場所に戻ってくる。「今日ごはんいらない」それだけ親にメールして、私は食べ始めた。うん、おいしい。「手作り」という箔が付いている、それだからだけでは決してなく。
 幹線道路、国道三〇二号線の真ん中。真下には高速道路。排ガスなどが普通は気になるはずだけど、まったくそうは思わなかった。この赤い星たちが、そう思わせてくれるかもしれない。
 食べ終わると私はコトネ達に別れを告げて、その場を離れた。うん、まだ大丈夫。まだ、吹っ切れたりしないから。また新しい恋、見つけるから。私は駅へ向かった。
『栄・名古屋方面、高畑ゆきが参ります。白線の内側に下がってお待ちください』
 真っ暗な世界から光の軌跡を描いてやってくる電車。その光の帯は当然ながら私の目の前へ停まる。プシュー、と扉が開く。私が乗り込み、同じような音を立てて扉が閉まると、また動き出す。
 この街に来ることはしばらくない。それでもこの街が、お気に入りの場所になりそうな予感がした。

おわり