Lineプレ・地震観測編

「これは……、正常値を逸脱しているな」
 東京都千代田区大手町、気象庁本庁。世界でも最高精度の気象・地震に関する観測データを持つ機関の一つ、そして世界でも例のない科学サイドからの巨大地震直前予知に取り組んでいる国土交通省の下部機関である。その対象である「東海地震」の震源域周辺に設置された観測機器のデータが取りまとめられるのがここ、地震火山部地震予知情報課。
 東海地震を予知するため設置された地盤圧力の変化を観測する機械のうち、静岡県浜松三ヶ日に設置された観測点の数値が極端な変化を見せた。そのことが数多く並ぶモニターに映し出される。ただ他の観測点に異常はなく、経過を観察する段階。この先変化がなければ「東海地震関連情報(旧称・東海地震観測情報)」としての提供に留まる。
「一応、長官まで回せ。プレスも準備を。──地震は?」
 課長の指示で部下達が走り出す。部下の一人、評価解析官は過去二週間の震源データを見て
「少し、活発ですね。短期で七くらいはあります」
 瞬時に判断する。気象庁は一ヶ月ごとに東海地域における地震活動指数を出しており、彼は特にその担当だった。その基になるデータは無感地震を多数含んでおり(むしろそちらの方が多い)、彼が手にした図もその震源表示で埋め尽くされていた。
「そういえば先ほど、浜松で震度一を観測する地震が有ったな」
「はい。震源は静岡県西部、フィリピン海プレート内の地震です」
「となると結構大きいな……」
 そこに、新たな異常を知らせるアラーム。画面を確認すると、今度は愛知県蒲郡清田観測点の通常値を越えた数値変化だった。これは、次の段階に移行する基準である。課長は迷わず気象庁長官との直通回線を取る。
「──長官、二ヶ所で歪み計の異常が出ました。判定会の招集をお願いします」

***

 十四時五十分、一連の現象と東海地震の関係性を精査する地震防災対策強化地域判定会が招集。同時に報道機関の記者達も記者会見室へ集められる。午後三時、マスコミ慣れしている地震火山部地震津波監視課長が同席しての気象庁長官臨時記者会見。
「本日午後二時三十二分頃より、東海地域に設置している一部の地盤歪み観測計のデータが異常な値を示し始めました。今回その範囲が二ヶ所に及んだため、東海地震判定会を招集するとともに、気象庁として『東海地震注意情報』を発表いたします」
 正式に経済活動の規制が始まるのは『東海地震予知情報』に伴う内閣総理大臣発令の『東海地震警戒宣言』だが、実際にはこの段階で授業打ち切りや早期帰宅の呼びかけなどの対策が始まる。日本社会に与える影響は大きいゆえ、慎重な判断が要求された。気象庁も手順通り、一部の判定委員とデータの検討を実施してからの発表である。
 注意情報発表を受け、日本国政府は内閣官房に東海地震対策準備室を設置、東海四県や南関東・長野・山梨・和歌山などの各都県とその下の自治体はそれぞれ災害対策準備本部を設置した。名古屋市を始めとする地震対策強化地域に属する主要都市ではエリアメールや広報車を使って早期帰宅を呼びかけ。テレビ・ラジオなど報道機関も通常番組を中断して臨時ニュースに切り替える。ただし東海地方以外の民放テレビ局はデジタル放送の特性を利用し、準備が出来た系列からサブチャンネルで通常番組(とは言ってもバラエティーの再放送が主だが)を暫定的に再開。但し携帯端末向けのワンセグはチャンネル分割が不可能なため全局臨時ニュースである。
 気象庁は観測体制を強化、長官は次のステップに移行する場合を想定して総理大臣官邸へ移動した。首相への説明を兼ねての措置である。全閣僚の招集、自衛隊に対する準備命令も合わせて行われる。十五時四十分、気象庁にて地震防災対策強化地域判定会開始。直後、臨時閣議も開始。開始後、愛知県田原高松・愛知県新城湯谷の順にデータ変動が確認され、それはすぐ判定会へ持ち込まれる。無感地震の観測データも個々の地震の判別が難しくなる程度まで増加していた。そして二十時四十四分、五ヶ所目「静岡県掛川」の異常データを確認。次のステップへ移行する基準を満たし、それに対応するように判定会もプレート境界型巨大地震の前兆現象・境界面がゆっくりとずれ始めるプレスリップ(前兆すべり)が発生している可能性が高いと追認する。ただしその規模は比較的小さく、地震発生は数日単位、東海・東南海地震の連動型の可能性があるとの意見を付けて。直ちに気象庁は経済活動への赤信号「東海地震予知情報」を発表した。世界初の公的機関による「地震予知」である。
 二十一時、総理大臣が官邸記者会見場に姿を見せる。「内閣府」の文字が入った作業着姿で、その表情は厳しい。暫定的に放送されていたサブチャンネルによる通常放送は中止され、テレビ・ラジオ・ワンセグ・インターネット中継などあらゆる手段で、国内外を問わずその模様が伝えられる。
「本日午後九時、『東海地震に対する警戒宣言』を発します。これは大規模地震特別措置法に基づくもので、東海地震の対策強化地域における経済活動を制限するものです。先ほど気象庁長官より『東海地震及び東南海地震の想定震源域付近で異常な値が検出されている。これは前兆現象とされるスロースリップが拡大しつつあると考えられる』と報告を受けました。地震発生により東海地方周辺の広い範囲で震度六弱以上の強い揺れを観測する可能性があります。また、太平洋岸では津波が到達すると考えられます。日本全国の皆さん、不要な外出は控えこれから数日のうちに起こり得る巨大地震に警戒して下さい。では気象庁長官より、詳しい説明をさせます」
 続いて気象庁長官が、今回の判断の経緯を説明する。その後会見は終了となり、各局の解説員が警戒宣言の意味や今回の判断に至ったメカニズムを改めて説明していった。
 二十二時十三分、内閣は中日本電力に対し静岡県御前崎市にある御前崎原子力発電所の停止を要請、中日本電力側はすぐに受諾する。ただ電力需給のバランスを取りながら行われることになっており、実際に手動停止の作業が行われたのは日付が変わって三時を過ぎた頃。揚水式水力発電の汲み上げと代替の火力発電所のスタンバイが完了してからだった。手動停止自体も地震による影響を防ぐため慎重に行われる。
 そして八時二十分。出力は最古参の三号機で五万キロワットまで落ちていた。

***

 八時二十分四十九秒、東京都千代田区大手町の気象庁本庁。地震火山部地震津波監視課にアラーム音が響き渡る。同時に同課が管理するスーパーコンピュータに入電、瞬時に地震の解析が始まった。最初に弾き出したのは「最大震度五弱、震源地不明」、これは単独の地震計に基づくものなので高度利用者向け情報として提供される。再計算の途中に別の海底地震計のデータが入り、そのデータも合わせ仮想領域上に地震が再現された。その結果震源は愛知県沖、推定マグニチュードは七・四、震源の深さは二十キロという想定がなされる。推定最大震度は六弱。この結果が「緊急地震速報(警報)」として一般向けに提供され、警戒が呼び掛けられる根拠となるデータだ。ここまでで地震波観測から一・六秒、地震発生からは四・八秒後。気象業務支援センターを通じ、情報提供機関にその結果が流れた。
 同時刻、NHK総合テレビ(名古屋)。東京都渋谷区の放送センター内にあるニューススタジオで臨時ニュースを放送している真っ最中、デジタル符号を使用してテレビに「緊急地震速報」の信号が配信される。赤地に白の「緊急地震速報」の字幕スーパーが画面上部に表示され、「ポーン、ポーン、ポーン」の電子音。デジタル放送の遅延問題を解消するため、ソフトウェア更新によってテレビ側に準備された機能だ。続いて独特のメロディと共に地図情報を伴った緊急地震速報の表示が現れる。「愛知県沖で地震。強い揺れに警戒」そして震度四以上の揺れが観測されると予測されたのは「東海・静岡・和歌山・山梨」(東海は東海三県を指す)。
 副調整室の判断で画面が静岡放送局の屋上カメラ(静岡市葵区)に切り替わる。音声では「緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください」とあらかじめ録音されたものが流れ、それが切れると臨時ニュース担当のアナウンサーがその旨を繰り返す。やがて、画面が揺れ始めた。
「現在の静岡の様子です。地震の影響で画面が大きく揺れています。強い揺れが続いている間は机の下などで落下物から頭を保護してください。倒れやすいものからは離れてください。──」
 アナウンサーが冷静に伝える。画面左側には縦に「東海北陸地方で大きな揺れを感じました」という字幕スーパー。名古屋市東区東桜にある拠点局・名古屋放送局のフロアーでも揺れを感じたため、東海北陸向け映像に対し独自に挿入されたものだ。
 映像には段々とブロックノイズが目立ち始める。経由する名古屋局と静岡局間の回線状況が悪化しているのだ。通信が途絶して放送事故になるのを防ぐため、映像は名古屋市内に変わる。名古屋放送局の屋上カメラから写された栄地区の映像。車や人などは緊急車両以外通っていなかったが、画面は大きく揺さぶられている。
「こちらは名古屋市内の様子です。道路に車などは見られませんが、激しく画面が揺れています。そして今、東京渋谷にあるこのスタジオでも大きな揺れが感じられています──」
 それが合図だったか、渋谷の放送センターから代々木公園越しに新宿の摩天楼を映す映像へ。こちらも小刻みに揺れる。
「繰り返します、現在各地で揺れが観測されています。揺れている間は机の下などで、頭を保護してください。倒れやすいものの近くからは離れてください」
 そこに地震速報。
「ただ今地震に関する情報が入りました。震度の情報です、震度七が愛知東部と静岡西部、六強が神奈川西部、静岡中部、六弱が愛知西部、静岡東部、伊豆と──」
 画面が日本地図に切り替わり、愛知県の下に「×」の記号。宮崎県から茨城県(東京湾除く)は紫色の縁取り、東京湾と北海道・東北・九州東シナ海側・沖縄などの海岸線には赤い線が入る。他の沿岸も黄色い線で囲われていて、全て点滅し始めた。デジタル符号では改めて「緊急警報放送開始」の信号が配信される(警戒宣言発表時にも配信済み。またアナログ 放送が終了しているため、直接音声に載せる信号ではない)。
「──大津波警報が発表されました。海岸沿いに住んでいる方はすぐ高台へ避難してください。繰り返します、大津波警報が発表されました。海岸沿いに住んでいる方はすぐ高台へ避難してください。非常に大きな津波の恐れがあります。早く高台へ逃げて下さい。──」
 津波警報の表示が終わった後、映像が愛知県・伊良湖岬に切り替わる。
「こちらは──愛知県田原市、伊良湖岬の映像です。左に見えるのは太平洋でしょうか、現在この海岸には大津波警報が出されています。今のところ、津波は来ていないように見えます。しかし津波は遅れてやって来ることもあります。また、第一波より第二波、第三波の方が高くなることもあります。解除されるまでは絶対に海岸線に近付かないでください」
 画面上に字幕テロップが流れ、それに呼応し画面は東海四県を中心にしたマップ。
「震源の情報です。震源は愛知県沖、震源の深さは二十キロ、地震の規模を示すマグニチュードは七・七と推定されます。この地震により太平洋側の広い範囲で大津波警報・津波警報が発令されました。最大震度は七、愛知県東部、静岡県西部で観測しています。──新しい情報が入ってきました。震度七は愛知県豊橋市、静岡県湖西市で観測しています」
 八時二十分四十六秒、愛知県豊橋沖・深さ二十四キロを震源に東は富士川河口付近・西は伊良湖沖まで震源域は拡大した。断層の破壊運動は一分三十九秒間続いたとみられ、東海・東南海連動型として分類されるこの地震は気象庁マグニチュード八・〇、モーメントマグニチュードで八・二と最終的に発表される(最初の速報マグニチュードは津波警報を迅速さを重視し、揺れ始め一分のデータのみを使用している。よって巨大地震の際の過小評価は免れない)。その震源域の広さゆえ豊橋や浜松といった主要都市でも震度七を観測、名古屋市の一部でも震度六弱の揺れが計測された。
 事前に警戒宣言を出すことが出来たおかげか、東名高速道路で大規模な路面崩壊が起こる状況でも死傷者数は奇跡的に少なかった。また先の大地震の印象が強かったか、浜名湖周辺の大部分が海水に浸かる大津波にも関わらず、津波による行方不明者はゼロに近い。御前崎原発は送電塔が倒壊したため外部電源の一系統が断絶、だが冷却は安定的に進み、津波に関しても取水口に軽微な被害が発生したに過ぎなかった。
 自衛隊は陸上自衛隊第十師団司令部(名古屋市守山区)が統合運用本部を兼ね、豊川駐屯地の全部隊出動を始め人員を大量投入する。全てが上手くいくはず、

 だが、駿河湾海底で新たな脅威が生まれようとしていた。