みどりのおはなし。

 にゃあ、と足に擦り寄ってくるタケ。銀色の毛並みが美しい、うちの猫。朝、身支度とか忙しい時間でも、タケはおねだりしてくる。
「どうしたのタケ? おやつ?」
 朝なのにおやつ、とはまた不思議なことを言ったものだ。独り、笑う。
「おやつにはまだ早いから、朝ごはんを食べましょう」
 台所に行って、タケ専用のお皿に猫缶とキャットフードを開け、軽く混ぜ合わせてからタケのところに置く。タケはすんすん、と匂いを嗅いでから食べ始める。ついでに、自分も朝ごはんにしよう。
 タケは前、名古屋に雪が降った日にもらってきた猫だ。クラスメイトのセーラちゃんが飼ってた猫だけど、色々セーラちゃんが忙しいらしく引き取り手を探していた。どうやら、セーラちゃんにしか懐いていなかったらしい。となると独りぼっちということで、それは今の、私と同じ。だから、引き取らずにはいられなかった。
 お父さんを亡くしてから、お母さんは変わってしまった。ひたすら仕事に打ち込むようになった。家に、帰って来なくなった。ただ私の銀行口座に、十分すぎるほどのお金を毎月振り込んでくるだけで。
 怖かった。自分しかいない、この状況が。頼れる人がいない、この状況が。強盗に襲われたら助けに来てくれる人はいるのだろうか、そんなことばかり考えてしまって夜は寝られなかった。その分、「安全」な高校で寝てしまって、何度注意されたか。でも、相談できる相手はいなかった。その状況が伝わるのが嫌で。
「翠、最近体調悪い気がするけど、大丈夫?」
 親友の歌穂も心配してくれたけど、真実は話せなかった。
 そんな時、声をかけてくれたのがセーラちゃんだった。ある日、セーラちゃんが家のインターホンを鳴らした。
「どうしても気になったから、訪ねさせてもらったわ」
「……どうして、家が判ったの」
 セーラちゃんとはただの同級生で、その時はそんなに親しい仲ではなかった。住所も教えたりはしていない。
「それくらい、私ほどの情報屋にかかれば片手の指ほどの時間もいらないわ」
「五時間?」
「五分よ。まあとにかく、中に入れて。色々話したいことがあるの」
 セーラちゃんを中に通すと、早速とばかり切り出してきた。
「父親を亡くされたそうね。その喪失感を補うように母親は仕事を二つ掛け持ちし、異常なまでに打ち込んでいる。基本車中泊らしいわね。だからあなたは父親と母親、二重の喪失感で苦しんでいる、そんなところかしら」
 全部真実で、怖いくらい当てられて。
「別に、変な宗教に誘おうって訳じゃないわ。でもね、独りで抱え込んでたら何も解決しない。本陣歌穂さんって親友もいるんでしょ?」
「かほりんには、心配させたくないの」
 だって、歌穂は、私の残された「日常」だもの。
「心配させたくないって言ったって、現に本陣さんは心配しているわよ?」
「わかってるけど、どうにもならないじゃない」
「話してみたら、変わるかもしれないわ」
「そんなこと、」
 出来っこない、で否定していいのだろうか。否定してしまったら、歌穂を信用していないことになるのではないか。
「誰だって、不本意なことはあって当然だわ。重要なのは、どう向き合うかどうかよ。独りで抱え込んでいたら向き合うことも難しい、けど、二人いれば、冷静に向き合える。三人いれば、解決方法を探すことができる」
「……セーラちゃんも、手伝ってくれる?」
「あなたが望むなら、ね」
 私は、歌穂にメールすることにした。明日授業が終わったら、話したいことがある、って。
 翌日学校に着くと、歌穂が心配そうに話しかけてきた。
「翠、話したいことって、何?」
「それは授業後に、ね」
「そっか、わかった」
 さすが親友、というべきか。それ以降は話しかけてくることもなく、淡々と午前中、一限から三限の授業を過ごす。お昼休み、お弁当を持って歌穂は私の席にやって来た。
「お弁当、一緒に食べよ」
 いつも通りの日常。大切な日常を、同じく大切にしてくれる歌穂に、直接言わないまでも感謝する。
 セーラちゃんが何しているかふと見てみれば、机に突っ伏して寝ている。お昼ご飯はいいのかな、と少し心配になった。
「翠、どこ見てるの?」
「いや、セーラちゃん、ご飯いいのかなって」
「海部さんが寝ているのはいつものことよ。気づいてなかった?」
 私のことを心配して昨日家まで来てくれたけれど、セーラちゃん自身は大丈夫なんだろうか。ちょっと、気にかかる。
 その隣では、三宅さんが淡々と次の授業の予習をしていた。一学期の終わり、突然ハワイへの移住が決まり転校していった子だ。今ではその子の代わりに、翼くんという男の子が座っている席だったりする。
 午後の授業が始まる頃にはセーラちゃんも起き、午前中と同じく淡々とした授業は過ぎていく。四限、五限と経ち、帰りのSTが終わればクラスメイトたちは教室から出て行き、やがて私と歌穂、セーラちゃんの三人だけになる。
「さて、そろそろ始めてもいいかしら」
 セーラちゃんがいうと、歌穂が不思議そうな顔をする。
「なぜ、海部さんが?」
「ごめん、セーラちゃんも手伝ってって、私が言ったの」
 そうなの、と歌穂は納得していない様子だが、それ以上は何も言ってこない。
「昨日、私は鶴里さんの家を訪ねたの。どうしても気になったから」
「なんで、海部さんが気にしていたの? 会話することも稀だったじゃない」
「私の元には、さまざまな情報が集まってくるの」
 セーラちゃんは、スマートフォンをスカートのポケットから取り出す。
「膨大な情報に、もちろん一件一件目を通せるわけじゃない。鶴里さんの情報を見かけたのはたまたまよ。だけど、見つけてしまった以上は私だって人間よ、気にしないわけにはいかなかったわ」
「どんな、情報?」
「それは、本人の口から聞くべきね」
 なるほど、そう私に振ってくるか。
「最初に謝っとく。……ごめん」
「……許すかは、内容次第かな」
 言ってみて? 歌穂は私に促す。
「三月に、お父さんが亡くなったの。ちょうど春休みだったから高校を休んだりしなかったせいで、かほりんは知らないよね」
「うん、初めて知った」
 それから、母親が仕事に打ち込むようになったこと。家でひとりぼっちになってしまって、心配で眠れないこと。ほか、いろんなことを歌穂に話した。静かに、歌穂は聞いてくれる。
「色んなことを、かほりんが心配をかけるからってだけで言えなかった。でも、それ以上に心配させちゃった。だから、ごめん」
 その時、歌穂が私をぎゅっ、と抱きしめてきた。
「えっ、かほりん……」
「翠が無事なら、それでよかった」
 ぽん、と歌穂は軽く額に額をぶつけてくる。
「私はね、翠が無理し過ぎて死んじゃうと思ってた。だけど、何にもしてあげられなかった」
 歌穂は、セーラちゃんの方を向いて言う。
「海部さん、翠を助けてくれて、ありがとね」
「礼には及ばないわ」
 表情を変えず言うセーラちゃんは、確かに「情報屋」気質なのかもしれない。でも、些細な一つの情報で動いてくれるくらいには、優しい子なのだ。

***

 七時半、学校に行く時間だ。MSWという地元のアイドル特集をしていたテレビを切り、カバンを手に持つ。
「じゃあタケ、元気に留守番しててね」
 お母さんは相変わらず仕事詰めで、家に帰って来た試しがない。だけど帰って来たら、真っ先にセーラちゃんの話をしようと思う。
 私を救ってくれた、セーラちゃんの話を。

おしまい