思いつき。

「ねぇ、今度ここで競走しない?」
 耳を疑った。
「……どこで?」
「ここで! マラソン大会があるんだってさ」
「……へぇー」
 名古屋駅桜通口(東口)から四方へ広がる大地下街の一角、とある喫茶店で休憩を取っていた時。僕の幼馴染みである黒川 なしろは巨大スイーツを食べ終わるなりこの話をし 始めた。
 別に、マラソン大会があることを知らなかった訳ではない。この喫茶店の入り口をはじめとして至る所にポスターが貼ってあるし、テレビのニュース番組で名古屋市長が「名古 屋といえば地下街だがや。地下街で何かやろまい」と言っていた。その時の構想は駅伝大会で、「名駅で駅伝」と可能不可能を考えず盛り上がっていた覚えもあるが。
「コウくんも中学の時、足速かったでしょ?」
「いやいや、五十メートルとマラソンじゃ雲泥の差だよ」
 ちなみに僕は、日比野 航という。市内の某公立高校に通う一年生で、それはなしろも同じ。だが学力には格段の差があって、何故なしろはもっと高いレベルの学校へ行かな かったか不思議でならない。今日は土曜日ということで学校は休み、なしろの買い物に付き合わされたのだ。曰く「女の子一人じゃ入りにくい店もあるし、買う物も多いから荷物 持ちが必要でしょ?」だそう。まだ何も買ってはいないが。
「勝った方が何でも言うことを──じゃなくて、負けた方が勝った方の言うことを何でも聞く! 不戦勝もありってことで」
 それは、参加を強制しているってことだよな? 過去にも同じ条件で勝負して負け、女装してなしろの家に行くというえげつないことをさせられた覚えがある。おまけになしろ の母親から「あら、可愛いお友達ね」と言われ、二重にへこんだ。
 なしろはどこからかチラシと参加用紙を持ってくる。「第一回・なごや地下街ミニマラソン」と大きく書かれており、よく見るといくつかのコースに分かれているようだ。名駅 コースが三キロで栄コースが一・八キロ、伏見コースが四百メートルといった感じ。日時は一ヶ月後の土曜日深夜、二十四時から二十六時までの間にスタート。定員はそれぞれ百 二十人。
「どのコースにするんだ?」
「もちろん、一番長いのに決まってるじゃない!」
 相変わらず負けず嫌いだな、と思いながら僕はコース説明に目を落とす。
「えっとコースは──ミッドランド・スクエアからスタートしてミヤコ地下街に向かい、そこからサンロード。ユニモールをぐるっと回って階段を降り、桜通線改札外コンコース を経由しファッションワンか」
「さらにエスカから地上へ出て、JR中央コンコースを走り抜ける、その爽快感! 桜通口で再び地下に潜って最後は照明の演出が素敵なルーセントアベニュー、ゴールはルーセ ントタワー。ほら、想像しただけでも楽しそうでしょ!」
 なしろが嬉しそうに言う。
「……まあ、貴重な経験には」
 ところで、名古屋人以外にもこの説明で通じるのだろうか。いや、名古屋人でさえ解らない人にはさっぱり解らないはず。簡単にまとめれば、同じ所を通らずに距離を長く取れ るルートだってことだ。
「それよりこんな深夜の大会、親が許可してくれるか?」
「それを突破せずに、マラソンで優勝できると思う?」
 僕だけでなく、皆に勝つつもりらしい。目標が高いこと高いこと。
「そうと決まったらすぐに申し込んで、それからコースの下見!」
 買い物はいいのか、とは聞かない。

***

 まあ途中でコースを外れ買い物もした訳だが(アニメショップの女性向けコーナーに長時間滞在させられ視線が痛かったのはスルーする方向で)、実際歩いてみるとかなり階段 は多い。同じ平面上にあると思い込んでいたサンロード・ユニモールの各地下街間にも段差があったりした。こんな所でマラソンなんかやって、事故が起こる可能性を考慮してい ないのだろうか。まあ、理屈抜きの思いつきでなければこんな大会は行われないだろうけど。
 大会までの期間はなしろに付き合わされ、毎日学校から駅の間、そして自宅の最寄り駅からは遠回りし川沿いを走り込む。
「でも何で、僕も練習に巻き込むんだ?」
「勝負はイーブンじゃなきゃ、楽しくないじゃない!」
 汗でセーラー服をベトベトにしながら、なしろは満面の笑顔で言う。勝ちたいんだか、それても勝たせたいんだか。
 そして当日。
 出場者は二十一時集合、場所は閉店後のミッドランド・スクエアの商業スペース。こんなに早い時間なのは混雑を避けるためともう一つ、出走順(競馬でも自動車レースでもな いが)を抽選で決めるため。事故防止の観点からスタートは十人ずつ、十分間隔で行う変則的なルールだ。その結果なしろとは別の組になって「タイムで勝負よ!」という方法に 変更。記録は運営側が取り各々に記録証が渡されるからちょうどいい。
 荷物は各自でゼッケン番号が入った札を付けた後、大会事務局によってゴール地点の休憩スペースへ運ばれていった。それからしばらく経ちなしろのスタート直前、
「髪、後ろで結んだんだ」
 いつもは黒くて長い髪をそのまま流しているなしろの、ポニーテール姿を目撃した。
「うん、スポーツ少女みたいでしょ」
「まあ、な」
 少し動いただけでも揺れ、気になることこの上ないが。
「負けないわよ?」
「もちろん、こちらこそ」
 先になしろの方がスタート。二組遅れて僕の番。
 スタート位置につくと、テレビカメラがやたらと目に入る。地元のテレビ局がマルチ放送技術を活用し各コースを生中継しているのだ。系列のBSでも放送しているらしいか ら、一応は全国中継でもある。
 時間になり、「パン」とピストルの音が鳴らされる。同時に、反射的に足が動き出す。同じ組になった中年のおじさん達をスタート直後から引き離した。至る所至る所にカメラ があるので、素材として使われているかもしれないが、それが嫌という感情よりはなしろに勝ちたいという気持ちの方が優に上。早々にへばりかけていた前の組の面々をユニモー ルで抜かし、彼女の組はJR中央コンコースの辺りで見えてきた。そのまま追い抜いて驚かせようと思ったが、そこに頭で後ろ髪が揺れる少女はいない。
(リタイア──いや、僕と一緒か)
 もっと前を走っているに違いない。僕はペースを上げてその集団の中を通過した。
 しかしなしろの姿は最後まで見えず、ゴールのルーセントタワーへ到着。完走者の休憩所に向かうと
「あ、おつかれコウくん」
 なしろは汗をたっぷりかいて、タオルにくるまりながらも笑顔で僕を迎えた。まあそうだとは思ったさ。
「なしろの組まで追いついたけどいないから、びっくりしたぞ?」
「私は、三つ前まで抜かしたよ」
「……がんばったな」
 さすが、負けず嫌い。
「目指せ優勝だもん。──コウくん、覚悟しておいてね?」
 何でも言うことを聞く、か。とんでもない約束をしたものだ(拒否権も与えられなかったが)。
 マスコミ的には日付が切り替わる午前五時頃になって、結果が出揃った。そして優勝者が発表される。
「優勝は、名古屋市港区の吉田 茂春さんです。タイムは──」
 一番最初の組で走った七十歳の健康おじいちゃんらしい。あまりにも速くてJRコンコースの封鎖が綱渡りだったそうだが。
 それぞれの手元にもタイムが記された完走証が配られる。もちろんすることは一つ。
「じゃあ『せーの』で言うよ? せーの、」
 僕となしろは、ピッタリシンクロした。つまり同じタイム。
「引き分けか?」
「そうみたい、だね」
 追い抜いた人数の差は、その面子のスピードに差があっただけのようだ。
「それで、引き分けの場合は?」
「……お互いが、お互いに言うことを聞く。あ、一方の命令を打ち消すようなのはなしだよ?」
 うわ、先回りされたか。しかしそれ以外になると簡単には……。
「私はね……、キスして欲しい」
「……はい?」
 いったい何を言い出すのか。
「だってさ、コウくん以上に魅力を感じる男の子っていないもん」
「まさか……そのためだけに」
 なしろは顔を真っ赤にしながら、微かに頷く。その仕草はとてつもなく可愛いというか。それが言いたいがためだけにマラソンを走るなんて、どうかしている。でもそんな恋心 は、僕にもちゃんと伝染した。
「しょうがないな……。なら一緒の大学に行けるよう、勉強を教えてくれよ」
「うん、もちろん。──ずっと一緒だよ」
 そしてなしろは僕に抱き付いてきた。
「ちょっと、汗でベタベタだけど──」
「そんなの、お互い様だよ?」
 まあ何処かのお嬢様じゃあるまいし、気にしないか。
「……ずっと前から、好きだったんだから」
 そう呟きなしろは目を閉じる。柔らかそうな彼女の唇に、自分のそれをそっと重ねた。
 そしてその光景は居合わせたテレビカメラでバッチリ写されており、ニュースにも使われたりして全国至る所に流れたらしい。僕となしろは学校中で、いやしばらくの間は会う 人会う人皆から注目されることになってしまった。まあ恋は盲目って言うし、それぐらいのペナルティーなら。

***

「へぇ、第二回はやらないんだ」
 一年後。僕達は例の喫茶店に来ていた。幼馴染みと荷物持ちという不自然な関係ではなく、カレシカノジョというある意味自然な関係になって。
「まあ準備とか大変だろうしな。クレームも入っていたみたいだし」
 地下鉄の改札はほとんど閉鎖されたし、JRのコンコースでは混雑する中で無理矢理設営したらしい。また距離が短い点や、観客スペースがないことも問題視されたとか。僕達 の件も、多少あるという。
「でもそれはそれで、レアな体験だったってことだね」
「……そうだな」
 幼馴染みに告白されるとは思っていなかったし。
「じゃあ行こっか。久々にコースを歩きながら、買い物するよ」
「例の店も行くのか?」
「もちろん!」
「……やれやれ」
 たった一回だけの、地下街を使ったミニマラソン。だけど僕となしろにとっては、大切な一回だった。思いつきと思いつきが重なって、僕達の関係が変化したのだから。