美少女の前で。

 駅を出て連れてこられたのは、名古屋ではどこにでもあるといっていいチェーンの喫茶店。彼女はカバンから財布を出し、紙切れのようなものを二枚取り出すと店員に「ブレンドコーヒー二つ」と注文して渡す。どうやらこの店のコーヒーチケットのようだ。
「さて、下田悠人さん。落ち着いたかしら」
 名乗らなくても知っているのは当然のように切り出された。まあ、合っているのだけども。
「鉄道で自殺なんて、悪いことばかりだわ。体は引きちぎられその痛みは想像に絶するでしょう。それを見た人のトラウマは、どうなるでしょうかね。さらに電車が止まることで、朝ラッシュの混雑がさらに加速する。どれだけの人々が満員電車に苦しむかしら。バスか、歩きで目的地までたどり着かないといけない人たちも出てくるでしょうね。そしてあなたと血の繋がった人たちは、鉄道会社からの賠償請求に怯えて暮らしていくことになる。皆を不幸にするだけだわ」
 そんなこと、知っている。それでも──
「それでも、そうさせるだけの理由があったんでしょう?」
 言いたかったことを、先に言われてしまう。
 彼女の手元にあるスマートフォンがブルッ、と一回震えた。少女は数回タッチし、画面に目を落とす。
「この近くの会社で営業をしているそうね。勤務態度は良好、クライアントからの評価も良く、出来ることなら案件を任せたいそうよ。だけどタイミングが悪く、結果として成績だけが上がらない」
「そんな気休め、求めてない」
「気休めじゃないわ。調査による、確かな情報よ」
 調査によるといわれても、どこからそのようなコアな情報を仕入れてくるのか不思議でならない。
 注文されていたコーヒーと、モーニングサービスのトーストが運ばれてくる。コーヒーに口をつけつつ、彼女は続けた。
「他の同期と比べて営業成績が上がらず、憂鬱気味だったと上司には見えていたそうね。『成績だけが営業の全てではない、積み重ねが大切だ』とアドバイスは受けていたみたいだけど、正面からは受け止められなかった」
 確かに、そのようなアドバイスは課長から受けていた。「気に病む必要はないから」とも言われた。だけど、数字が、僕を圧迫した。
 五十メートル走のタイム、テストの成績、内申点。昔から数字が僕を圧迫してきた。ゲームの中でさえも、数値として判断される。世界だってそうだ。平均株価、支持率、そして年収。すべて、数字で判断される。そして皆が皆、その数字を良い方に持って行こうとする。時には足を引っ張り合ったりする。僕ももちろん、例外ではない。そんな世界だから、営業成績という確からしい「数字」に、僕は気を病まれたのかもしれない。
「とりあえず会社の方には有給をねじ込んでおいたから問題はないわ。私は高校に行かなきゃだけど、そうね……」
 少女はしばらく考え込む様子を見せた後、言う。
「夕方からになるけど、伊勢に行きましょうか」
「伊勢……?」
 唐突な提案に、僕は驚きを隠せない。
「伊勢はいいわ。特に神宮は空気が透き通っていて、気を休めるにはいい所よ」
 待ち合わせの場所と時間だけ伝え、少女は足早に去っていった。
 さてふいに空いてしまったこの時間、どう使おうか。

***

 なんとなく、名古屋駅前の映画館で一本映画を観る。かなり前からやっている、評判も高いらしいアニメ映画だが、見たことがないのでこの際観ることにした。フタを開けてみれば何のことはない恋愛映画で、田舎に住む少女と都会に住む少年が入れ替わりを起こすことで時と場所を超えた恋をする、という内容だった。展開の早さに置いてかれそうにはなったものの、評判通りの面白さだったというべきか。
 それから、せっかくなので普段は高くて手の出ないようなレストランで昼食を取ってみた。値段だけあって味は悪くなかったが、どこか物足りなさを感じたのは気のせいだろうか。
 平日をのんびり過ごす、そのような経験は学生時代の長期休暇以来だった。しかし思ったよりも後ろめたさはない。そんな後ろめたさがあって、これまで有給休暇を取ろうとして来なかったのにも関わらず。
 建物内の椅子でぼーっと過ごしていると待ち合わせの時間は意外に早くやってきた。
 名古屋駅桜通口の金時計といえば、待ち合わせの定番だ。平日にも関わらず、人で混み合っている。その中に、例の少女もいた。時刻は午後三時半、この時間にセーラー服はまだ目立つ。
「待たせてしまったのなら申し訳ない」
「いえ、待つのは趣味のうちだから問題ないわ」
 少女はきっぷを一枚、僕に渡してくる。伊勢市駅までの回数券らしい。
 改札を通って通路を進み、少女に続いて階段を上る。その先のホームに止まる二両編成の列車に乗り込んだ。
「しかし伊勢なんて、行ったことなかったな」
「そう、ならいい機会ね。行く価値は存分にある場所よ」
「寂れた街と聞いたこともあったけど」
「古くからの商店街はシャッター通りになってしまっているわね。けれど神宮周辺の賑わいは、雰囲気は、確かなものが残っているわ」
「それだけ、引き付けるものがあると?」
『間もなく、快速みえ十五号鳥羽行きが発車いたします。お乗り間違いのないようお願いいたします』
 少女とやりとりをしていると列車の扉が閉まり、動き出す。
「伊勢には何回くらい行ったことあるんだ?」
「数えきれないくらいね。三ヶ月に一回は行っている、ってことは確かだわ」
「そんなに……」
「言ったじゃない、気を休めるにはいい所だって」
『本日は快速みえにご乗車いただきありがとうございます。この列車は伊勢鉄道を経由し鳥羽まで参ります。次は桑名に止まります。お客様にお知らせします、この列車は四日市から津までの区間にて伊勢鉄道を通ります。ジャパン・レール・パス等の企画乗車券をご利用の方は別途料金が必要ですので検札時に車掌までお申し付けください。また、IC乗車券をご利用の方は四日市までのご利用となりますのであらかじめご了承ください。次は桑名、桑名に止まります』
 車掌によるアナウンス。まあ、少女から渡された回数券を渡された自分には関係のないことだ。
 そういえば、少女の名前を聞いていなかった。
「君の名前は、なんというんだい」
「そうね、言ってなかったわ」
 一度、髪をかき分けてから、少女は言う。

「海部セーラ。それが私の名前よ」

***

 伊勢市駅に着いたのは、午後五時過ぎだった。伊勢神宮の玄関駅ということもあり、駅前には木製の鳥居が設置されている。
「本当は外宮から内宮に回るのが作法とされているけど、時間がないから内宮の方へ行きましょう」
 そう言った少女に連れられバスへと乗り、内宮前に着いたのが六時前。有名な木造橋・宇治橋を渡るとそこからガラッと、空気が変わったように感じられた。形容すれば空気が冷たくなったような。
「そう、ここが神宮。神宮が神宮たる由縁よ」
 少女は誇らしげに言う。
「ここで救われた人たちが、どれだけいるかしらね。私自身も、何回もここで救われているわ。いや、神様はただ、その手助けをするだけなのよね」
「海部さん、君は一体、何者なのだ?」
 ここまで溜まって来た疑問を、初めて口にした。
「私は、私よ。ただの高校二年生。まあ、情報屋なんてものはやっているけどね」
 少女はそっけなく、答えた。