T1206K

 桜通線T1206K列車。徳重駅を十二時六分、今池駅を十二時三十分に出発した、運用記号十六を付ける列車である。今日・十二月二十四日は、平成元年に導入され電気機器の更新改造がされた6104F編成が充当されていた。
「ええ、車道駅でドアが開かず、高岳駅を通過しました。……はい、車道のホームドアは開いていましたから地上側の故障ではないと思われます」
 その編成の先頭車両後ろ寄り、携帯電話のようなもので状況を報告している、学生服姿の少年。その隣でじっと周りを観察する、セーラー服姿の少女。二人は警察官で、なおかつ中学三年生だった。愛知県警八白警察署子ども課所属の子ども警察官。いつの間にか「伝説の子ども警察官」と呼ばれるようになった藤枝 勝、森岡 翔子の両名である。
 子ども警察官。今年度八白市に警察署が新設されるにあたり実験的に導入された、愛知県独自の制度である。中学生活を送りながら警察署に通い、業務の一部を実習の形で体験する。市内三中学校(向、井田、渋川)から学年ごとに各学校六名ずつ、計三十六名と警察署内の各課担当者からなる体制だが、その中でもこの二人は立て続けに起こった事件の解決に大きく貢献していた。
 今日、二人は県警副本部長から呼び出されており、今池駅から乗り換える形でこの電車に乗った。下車予定は丸の内駅。愛知県警察本部の最寄り駅の一つである。
「異常事態に、車内はパニックになりかけています。そうですね、車道駅発車時から、速度が落ちる時は急に落ちるというか」
 最悪、ドアを開けるための非常コックを操作すれば連動して非常ブレーキがかかる仕組みになっていることは、二人も知っている。しかし、それは行わない。犯人がどのような人物か判っていない以上、不用意に刺激することは出来ないのだ。ただその一方で、制限時間もある。このまま走り続けば先発電車に追いつくか、終点の中村区役所に着いてしまう。
 そこに、指示が飛ぶ。それを聞いて、藤枝は了解、と呟くように言う。
「藤枝くん、なんて?」
「丸の内で電車を止めて、引き込み線に入れるらしい」
「なるほどね、しかし、どうやってやるの?」
「非常コックを使って、だそうだ」
「それは、双眼鏡越しで針に糸を通すような作業ね」
 桜通線はATOによる自動運転を採用している。これが通常時はワンマン運転とホームドア導入を支えているのだが、その二つが今回、不利に働いているのだ。車掌がいれば乗務員室で、もっと安全で確実な方法で電車を止められるし、ホームドアが無ければ停車位置の正確さを求められることもない。
 非常コックを操作すれば安全のため非常ブレーキが掛かる。しかしこのブレーキは通常使われるブレーキとは仕組みが異なり、制御するというよりは確実に止めることに重点を置いたものである。しかも正確なスピード、編成全体の重量などの諸条件が判らない状況では無謀とも言えた。
 だからこそ、か。「伝説の」の名が試される絶好の機会でもある。
「森岡さん、最後尾車両まで行って乗客に呼び掛け」
「解ったわ。くれぐれも、気を付けて」
 森岡は不安そうに藤枝を見る。彼には「前歴」があるのだ。
「解っているさ」
 その言葉を聞き、森岡は離れた。
 列車は名城線との交差駅、久屋大通駅を通過する。広いホームで待っていた乗客が、不思議そうな表情でその電車を見る。次駅が、丸の内である。
「今!」
 藤枝は扉近くの座席横に取り付けられたふたを開け、思い切り引く。ドアのロックが解除される音とともに、ブレーキ管の圧力が抜け、ブレーキパッドが車輪に押し付けられる。その巨大な、甲高い摩擦音、そして火花。車体は波打つように揺れ、吊り革が一周して取り付け棒に絡み付く。
焦げ臭い匂いが車内にも微かに漂い始める。
『非常ブレーキがかかりました。ご注意下さい』
 車内のスピーカーからは自動音声が流れるが、けたたましい制動音に遮られその効果は限定的。しかし森岡の呼び掛けもあり、乗客は椅子に座ったり、握り棒に掴まったりしていたため転倒するような人は少なかった。
 ポイントを通る振動の後、列車は丸の内駅に進入する。鶴舞線との乗換駅であり、市営地下鉄で一番深い場所にある駅。他の駅に違わず、島式ホームである。万が一に備え東改札と乗り換え通路が事前に閉鎖されていることもあり、ホームに乗客はいない。そして列車は、奇跡的に停車位置へ停まった。ホームドアが開く。
 森岡がコックを操作して最後尾の扉を開け、運転士を車内へ。彼は現在ホーム反対側に停まる編成の乗務員。
 しかし、まだ電車は動かせない。反対側の編成の乗務員を確保しなければ当該編成を動かせないと運転指令室が判断・指示していることによってである。
「乗客の避難は可能かしら」
 森岡は、携帯電話らしき機械──捜査情報端末に聞く。

***

「T1206K、丸の内駅に停止」
 輸送担当の指令員がその事実だけを伝える。
「桜通線丸の内駅は全員ホームからの退避を完了。問題ありません」
 旅客担当が付け加えるように言う。
「引き込み線入線用に対向ホームの運転士を乗車させました。代替運転士を確保できていないのでまだ発車は出来ません」
 運用担当の報告。代替運転士は今池駅から東山線・鶴舞線経由で丸の内駅に向かっている。運転指令室としては、事件解決とともにダイヤの早期復旧も必須事項。本線を空けて速やかに取りかかりたいという思惑が見て取れる。
「警察さんは?」
 桜通線統括指令がふと、終始携帯電話らしきもので連絡を取っている愛知県警捜査員に聞く。
「我々とは別の交渉班が向かっているはずですが。あと、乗っている乗客を避難させることは出来るかと乗り合わせていた警察官から」
「駅員がギリギリなのでそちらの方には……」
 旅客担当が渋る。丸の内駅東改札閉鎖により乗客の苦情が押し寄せ、それが北改札にも波及し始めている。駅員だけで抑えられなくなることは容易に予想できた。
「他の駅も同じような状況が予想されるため動けません。集められる所から集められるようにしていますが、間に合うかどうかは……」
 中村区役所駅から徳重方面への発車は既に見合わせている。後続列車も順次抑止が掛かるため、桜通線全体への影響は避けられないものとなっている状況。今池駅の構造上、今池・徳重間の折り返し運転は避けたいという事情もある。
「私としても可能な限り当該列車を速やかに引き込み線に入れたいのです」
「しかし、乗客は? 被疑者が行動を起こす可能性も考えられます」
「それならそちらで特殊部隊なりを動かせばいいだろう!」
 桜通線統括指令の怒声。一体何を考えているのだろう、と捜査員達は訝しげな表情を見せる。
 桜通線統括指令としては、本線で事件を解決するのは避けてほしいというものがある。本線上で解決してしまうとその現場検証が行われることを意味し、運転再開がさらに遅れる。遅れるとそれだけ苦情も、二次関数のグラフのように急増する。乗客が他路線に流れることにより、遅延が広がる。特に東山線。桜通線建設の目的として東山線のバイパス・混雑緩和があるため、常時混雑する名古屋・栄間の影響は計り知れないものが予測された。
「しかし、地下空間となると訓練に時間が……」
 彼は愛知県警の特殊部隊、SATを管轄する警備部の人間ではないが、密接に関わる特殊犯捜査係(SIT)だからその大変さを聞いている。限られた空間で行動するためにはその感覚に慣れるのが必要で、そのために実物大模型を作ったりもする。設立目的である航空機ハイジャックについては同型機を借りての訓練で時間を節約出来る。実際SATの一班は徳重車庫に向かっており、同型車両を借りての訓練を予定していたが、それにはまだ時間がかかる。SATはまだ、動けない。
「県警としては被疑者との交渉を進めます。乗客の解放が可能なら実現させます。それには変わりありません」
「可能なら、な」

***

 丸の内駅東改札から、桜通線ホームへと数人の人影が降りる。彼らは停車中の先頭車両に向かい、軽くノックする。
「愛知県警察です。この鉄道ジャックの目的はなんでしょうか、応答願います」
 彼らは現在上前津運転指令室に派遣されている捜査員と同じ部署所属で別班の、誘拐事件などの交渉で活躍するSIT。通常県警本部に待機しているため、出動も普段に比べたら早い。今回は被疑者を説得して事件を早期解決させる役割のほかに、捜査員に注目させて乗客避難からの目を逸らそうという目的がある。ワンマン運転対応のためホームには監視用モニターが設置されているので、後方確認が容易になってしまっていた。
 だが、乗務員室からの応答はない。ただ、桜通線の車両はワンマン運転を前提に、進行方向に向かって右側に運転台がある。ホーム側に運転台があるという条件で、犯人の姿が見えないというのは異常だった。
 状況を確認しようと、捜査員の一人が乗務員室を覗き込もうとする。すると、ガラスが一気に砕け散った。そして発砲音。
「本部へ至急至急! 被疑者は拳銃を所持! 繰り返す、被疑者は拳銃を所持!」