小説書きの執筆小話。

小説書きにとって嬉しいことは何ですか

 このエッセイも第五話になりましたね。語りたいけど普段は書けないことは結構あったりするので、こういう場があると自然とタイピングの手が進んでいきます。
 さて、「小説書きにとって嬉しいことは何ですか」と問われた際、自分はこう返します。

 読んでもらっているという、確かな感触を得られた時。それが私にとって嬉しいことです。

 創作というのはなかなか読み手の顔が見えにくいものです。特にインターネットで小説を載せている身だと、本当に読んでもらえているか気になるところです。まあそのためにアクセス解析があったり、カクヨムだと閲覧数表示など出来る訳ですが。
 その点「確実に読んでもらえる」媒体があることは書き手にとって喜ばしいことです。そして大学時代、私はそんな媒体に作品を発表していました。
 『Striking Anew』。大学で所属していたサークル、文学研究会の機関誌です。部費は年間三千円でしたが、自分はこの、発表の機会を使うために払っていると考えていました。確実に部員は目を通し、さらには学内の他にも読んでくれている方がいるわけで、そんな場を維持していくためには力を惜しみませんでした。
 この『すとあにゅ』に載せた中でも一番のお気に入りが、「これはまるで、SFの世界に迷い込んだかのようですね。」です。
 この作品の初期コンセプト、「誰にも最後まで読ませない」というなかなか変わったものでした。普通、小説というものは最後まで読ませて然るべきです。しかしあえてこのコンセプトを設定したのには、一つの理由がありました。
 重さと、軽さ。小説には両方の要素が必要です。重さがなければ小説はふわふわした、はっきりとした形のないものになってしまいます。一方、重いばかりでは読者を選ぶ、堅苦しいものになってしまうことでしょう。それを逆手に取ったコンセプトが「誰にも最後まで読ませない」です。
 まず、前半は重く、堅苦しく書くことでライトな受け手を排除します。排除したところで、後半は思い切りはっちゃけて書くのです。『すとあにゅ』に載せた時なんか、「ナタデココ、ビーーム!」って台詞だったりをフォントを大きくしたりしましたからね。すると堅苦しいものが好きな受け手もいなくなる、つまり、そして誰もいなくなった、ということになります。
 実際の作品は最後の部分で「クロスフィア」へもつながっていく展開をつけたことにより、少し重さが出てきてしまいましたが、その分長いタイトルで軽さを演出したりしています。こんな遊びができるのも、読み手がいることを保証されている環境ならではです。カクヨムでの閲覧数を見てみると、一通り読んでくださった方はいるものの、最初で読むのをやめた、つまり堅苦しさが受け入れられなかった方が多いように感じられます。
 次回は、大学時代にあった「谷」について触れながら、書いていきたいと思います。