CP2・第一部

第四章・予告

 日曜日は主に先輩達との雑談で過ごし、新横浜駅まで出て、名古屋へと帰る二人を見送った。そして月曜日。
 あわよくば休みだったかもしれないが、鑑識作業はスムーズに進められたようで。ほぼ平常通りの授業だと連絡網が回ったらしい。らしい、というのは昨日カナから教えてもらうまで知らなかった訳で、刑事である母さんはともかく父さんも休日出勤で土日とも家におらず、唯一家にいるはずだった妹も独りは嫌だったらしく友達の家へ遊びに行っていたそうだ。それゆえ留守録も機能しておらず、連絡が取れる状態ではなかったので仕方がない。連絡網の一つ前、鈴木 久光には今度謝っておかないと。
 カナはいつも通り俺の家に寄って、装備を付け学校へ行く。まるで先週金曜日が戻ってきたかのような時の流れ。校門が開くと俺達は西の昇降口へと向かった。正面玄関に水島副校長はいない。カナが「同じ轍を踏んだら任意同行」と言っていたけれども、この様子からして水島副校長の逮捕はまだ先のようだ。
 それを確認した直後、無線が入る。
『神奈川本部よりCPへ。科学捜査研究所《かそうけん》より分析完了との報告、端末を参照せよ』
 カナと俺は小走りで「東昇降口」から北側校舎に入り、脱いだ靴を持って廊下へ。そのまま俺達の教室「一年四組」に入る。
 カナはカバンを自分の席へと置いた後、スカートのポケットから携帯電話型の捜査情報端末を二つ取り出し、一方をポケットに戻した。手に持ったままだった方を操作し、無線で指示された情報を取り出す。
「接着用のりの成分分析では、職員室内のコピー機付近にあったスティックのりと封書ののりの成分がほぼ一致。封筒・のり共に指紋は複数検出されていて、手がかりにはなりそうもない。紙の材質は──室内のコピー機で使われているものと同じ。トナーも一致。よって内部犯の可能性が大分、高くなったわ」
 俺にそう教えてくれた後、カナは胸元から無線用マイクを引っ張り出した。
「こちらCP、確認しました」
 カナの声は耳のイヤホンからも聞こえた。この声はつまり、無線にも流れているということだ。
『神奈川本部、了解。以上交信終了』
 カナに応える声は何となく、田崎管理官のような気がした。
 CP用のスーツケースと靴を持って教室を出、西昇降口で上履きを履き靴を下駄箱へ。そのまま西側の渡り廊下を通り職員室へ。
「失礼します」
 いつも通りカナが言う。部屋に入った印象は、今までとそう変わらないような気がして、しかし事件の影響か少し緊張しているような空気も感じる。例のごとく校長先生は近くにいた。
「金曜日はご苦労だったね」
 今日は校長先生の方が先に口を開いた。
「いえ、当然のことです。それで今後なのですが、来週の金曜日──つまり合唱コンクールまでの二週間はCPとしても警戒レベルを大幅に引き上げ、万が一に備える方針です」
「この前大丈夫だったんだから、今後も問題ないんじゃないか?」
 カナの言葉に異論を唱えたのは、水島副校長。それについては予想の範囲内。
「水島副校長の言う通りですよ」
 だが校内ナンバースリー、教務主任の元木先生までが同調したので、それはカナにとっても驚きだったらしい。小さく「え」と声が漏れる。隣にいる俺にしか聞こえないほど小さく、だが。
「つまり警察サイドとしては、この二週間に集中している学校行事を中止せよと言う訳ですね? そんなことして見て下さい、保護者から苦情の嵐ですよ」
「いえ、そんな権限はわたしには……」
「そもそも『子ども警察官』ですっけ? そんな組織が必要なほどこの学校は荒れてなんかいません。金曜日の事件だって大ごとにして、一体何の存在価値があるんですか? おまけに労働基準法や地方公務員法をまるで無視、違法だらけの紛い物じゃないですか」
 ここまで言われて、カナが我慢出来るはずがなかった。攻守交代である。
「現在『子ども警察』制度が導入されている愛知県内の六校のいずれも、極端に荒れているということはありません。それに金曜日の事件、あれ以上に有効な手立てがあるのでしょうか。爆弾が発見されなかったのも結果論ですし」
「爆弾があるのを確認してから──」
「リミットまで二十分、犯人との連絡も取れないという状況で、まさか生徒を教室に残したまま爆弾の捜索を始めるとでも? それはパニックを引き起こします」
「そ、それは──」
「あと、地方公務員法に年齢規定はありませんし、労働基準法についても適法の範囲内であると、裁判所の判例も出ています」
「……どうやっても君に勝てそうな感じはしないな」
 教師にそこまで言わせてしまうのは、やっぱりカナだからな。理論武装は固い。
「まあここは安江さんの言うことがもっともだよ」
 校長先生も加勢し、元木先生も黙る。
「さて、学校側としてはどのような対応を取っていくべきなのかな、安江さん」
 校長先生の問いにカナは一呼吸置いた後、答える。
「はい、現在次の犯行予告が来ている訳ではないので、郵便物チェックを念入りに行ってほしいということと、もう一つ、可能ならば電話の即時録音体制、これをして頂けたら万が一の際の捜査が効率的に行うことが出来ます。学校行事については中止を勧告する段階ではありませんが、特に土曜日の文化祭については注意が必要です」
「それは、何故ですか?」
 窃盗事案の時はカナを半泣きにさせた高橋先生が尋ねた。カナはすぐに返答する。
「不特定多数の人間が自由に動き回れる環境が実現する、犯人側にとっては非常に好都合な日だからです」
 教師達はやっと、土曜日に行事を行うことに対する、潜在的危険性に気付かされたらしい。周囲からざわめきが感じられる。
「この学校にはCPがいる、自分達でいうのもなんですが、それは非常に幸運だったのかもしれません。初動が迅速に行えるという点で。必ず次はあります。決して油断しないでください」
「わかった、頭に入れておくよ」
 その校長の言葉を聞いてカナは少しだけ微笑み、いつも通り俺の腕を引っ張って職員室を出たのだった。
 部屋を出るとカナは俺を離す。一緒に教室へと戻り、他の生徒がまだいないことを確認してから、ようやくカナは口を開いた。まあ、内部犯がいる可能性が高い以上万全を期す必要がある訳で、俺が同じ立場でも警戒していただろう。
「先輩達の読みは明日以降ってことは聞いてたよね?」
「ああ」
 昨日、藤枝先輩達は大胆にもこの事件の経過を予想してくれた。当たれば「伝説」の名がますます強まることになるが、それによると第二の予告は火曜日以降、犯行は土曜日とのこと。「私達が関われば事件は必ず解決するから!」とは森岡先輩の弁だが、カナの反応を見ている限りあながち嘘でもないと思われる。
「今日も念のため警戒態勢は解かないけど、本当の勝負は明日。『昨日は何も起こらなかった』という心の隙と、犯行日を引き伸ばして心の隙を広げるというバランスが取れる、犯人側にとっては絶好の日だからね」
 その言葉通り月曜日は何も起こらず、朝に金曜日の事件を説明するための全校集会が開かれたこと以外は、通常の時間割がその通りに進んでいった。

* * *

 動きがあったのは、カナをはじめとするCPの予想通り、翌日になってからだった。火曜日の、十二時四十分頃。四時間目の授業である数学も終わりがけになった時、突然カナが首を起こし、左耳に手をもっていく。それは集中して無線を聞こうというサイン。表情も真剣な、緊迫した雰囲気へと変わる。俺の取るべき行動を、それは示す。「無線を聞け」だ。
 俺は腰に付いている無線機を起動させ、左手の袖にあらかじめ通してあるインナーホンを引っ張り出した。左耳にそれを付けると同時に、周囲から判らないよう手で覆い隠す。耳からは音質の悪い、警察無線の交信が入った。
『──繰り返します、神奈川本部より浜浦及び神奈川CPへ連絡。現在一一〇番入電中、犯行予告状が届いたとの通報。場所は蛯尾浜市立中部中学校。関係各所は対応に当たって下さい。──』
 ちょうどいいタイミングで四時間目終了を知らせるチャイムが鳴った。俺とカナは、号令に従って礼をするとすぐにスーツケースを手に取って教室を飛び出し、早足で「現場」へと向かう。先週・今週とも給食当番に当たっていなかったのは不幸中の幸いだった。
 転校してきてからもう一週間、しかも毎朝足を運んでいたので、さすがに俺の案内なしでカナは職員室にたどり着く。部屋に入るなりカナは入り口近くの空いている事務机にスーツケースを置き、その中から白手袋を取り出し両手にはめた。その手で校長先生から封筒を受け取った。中身を出して広げるまで、まるで流れるように。自分が一通り目を通した後、カナは俺にもそれを見せてきた。

今日から九月末までの某日、貴校に何かしらの犯行を仕掛ける。生徒の安全は保障出来ない。未然にその犯行を止めたければ九月十八日火曜日までに現金九拾六萬円を横浜市営地下鉄横浜駅にある電子鍵式コインロッカーに入れろ。入れるロッカーは402番、暗証番号8811で開け、暗証番号3923で閉めること。警察に通報すれば、金の有無に関わらず
取引は不成立とする。以上

 A4サイズの紙に、縦書きの文章がワープロによって打ち込まれている。紙の材質については前の予告状よりも上質なもののように感じた。
「予想通り、来たわね」
 カナが独り言のように呟く。何かを考えるように一旦目をつぶり、そして再び目をあけるとその顔は、警察官そのものになっていた。
「とりあえず、これを見る限りでは来週火曜日まで安全って訳だよな」
 水島副校長がカナに、確認するように尋ねた。しかし、カナはすぐには答えない。いや、一人では確信が持てなかったと表現した方がいい。少し待って下さいと俺を連れて職員室を出ると、小声で聞いてきた。
「現金を受け取るのは来週の火曜日、でも犯行予告の範囲は今日からって……。単に現金を要求しているだけなのか、それとも犯行は十九日以降に実行すると脅迫してるのか……。浩和はどう思う?」
 俺にはどうしても気になる点がある。それは一応、文化祭の日も犯行予告の範囲には入っているということ。そこに意図というものが感じられて頭から離れない。だから俺はカナに言った。
「偽の犯行予告まで出してくる奴らが、『ただのミス』をするのか?」
 それを聞くと、カナは何か重要なことに気付いたかのように顔を上げる。
「そういえば予告状には、お決まりのフレーズもあったけど、それが何かを意味するとしたら……」
 少しの間カナは考え込む様子だったがすぐに「警察官としてのカン」が働いたようで、胸ポケットからメモ帳とボールペンを取り出すと情報の整理らしきことを始めた。そのペン先は決して止まることはなく、ただただ帳面にインクを載せていく。そのペン先が止まったと思うと、捜査情報端末を取り出して何やら調べ、メモ帳のページをめくってまたペンを走らせる。結局四ページ程を消費した後、カナは俺に自らの推理を説明し始めた。
「例えば職員室の誰かが犯人グループと関わりを持っていたら、警察に通報したことが相手に筒抜けになる。また今回の場合、一一〇番通報が県内系に流れた。それは通報の事実が県全域に伝わったということ。受信範囲に犯行グループと関わりがある警察官がいれば、やはり情報は筒抜けよ。前者の可能性は高いことを考えれば、この予告状は矛盾なく成立するわ」
「それは、内通者がいるってことじゃ。下手したら、警察内部に」
「ええ、そうよ。ただ一斉通報を受信出来る関係者は膨大な数になるから、絞り込みは困難になるけど」
 一拍分置いて、カナは再び口を開く。
「後で先輩にも確認してもらうけど、そのどちらかの線で通報の有無を確認してから身代金受け渡しをすると思うの。手元の捜査情報端末で確認できた範囲では、犯人の要求通りに応じ、事後通報したケースと、警察に通報した上で身代金受け渡しに応じたが、何も起こらなかったケースの二パターンに分けられる。それが犯人のやり方よ。万全を期す、ね」
「じゃあこの学校が襲われることはない、ということか?」
「今までのケースから考えれば、そうなるわね。でも油断は禁物よ。どう犯人の気が変わるかは判らないから」
 それを聞いて少しだけ安心した。前例からとはいえ、一応の安全は保障されたのだ。俺自身、CPになってから日も浅い。いきなり重大事件に対処するということになったら、大きなプレッシャーがかかる。
「とりあえず田崎管理官に連絡して、その後浜浦署の刑事が来たら一旦教室に戻るわよ」
「え、捜査はしないのか?」
 俺にとってそれは意外だった。カナのことだ、このまま捜査を続行すると思っていたのだが。
「わたし達は警察官である前に中学生よ。当然、可能な限り義務教育を優先させなきゃいけないわ」
 強い口調で、カナは言う。
「それに、今回の件はCPにとって大きすぎる。これは『大人達の』警察に任せるべき事件よ」
 カナは田崎管理官と連絡を取るため、捜査情報端末を操作し始めた、カナの言うことはもっともだが、何故か俺は大人に任せることに対し不安を感じてもいる。その不安に根拠はなく、言ってみれば俺なりの「カン」である訳だが。
 カナがこれから使おうとしているのは「捜査情報端末」に搭載された独自の新方式無線で、システム運営を所管する部署名を取り「捜査センター無線」と呼ばれているらしい。カナの説明によるとこれは今までの無線と併用する前提で開発されていて、画面上に表示された相手を選択して呼び出すという、電話にも似た方式である。ただ電話とは異なり接続可能状態でなければ名前は表示されず、また一般的には普及されていない多数での同時会話も実現されている。
 端末の画面でカナは「捜1・田崎管理官」を選択する。ここからは普通の無線を使う感じで、カナは端末を持つ。俺にも聞こえるよう配慮したのか、音声出力はスピーカーからだ。
「本部CP安江から捜一、田崎管理官へ」
『──こちら捜査一課、田崎。どうぞ』
 聞き覚えのある声が、返ってきた。音質的に、普通の無線よりもクリアで聞き取りやすい。
「例の事件について動きがありました、どうぞ」
『一一〇番受理までは確認済み、どうぞ』
「予告状の内容を確認しました、どうぞ」
『了解。都合が付き次第、そちらへ向かう。とりあえずデータ通信で予告状の文面写真と、君達なりの見解をこちらに送っておいてくれ』
「了解です、どうぞ」
『以上交信終了』
 カナは終話ボタンを押して無線交信を終了させた後、職員室へと戻る。
「結局、文化祭は安全か?」
 水島副校長が聞いてくる。
「結論からいえば、半々と言った所でしょうか。単純なミスと考えるのも早計ですし。警戒するに越したことはありません」
 カナは予告状を広げ、捜査情報端末で写真を撮る。何枚か撮り終えた頃になってようやく、浜浦警察署の刑事達が学校に到着した。
「では予告状の管理、お願いします」
 職員室に入ってきた刑事達に対し、カナは畳んで封筒に戻してから予告状を差し出す。一番先頭にいる黒色の背広を着た刑事は白手袋をポケットから出してはめてから、それを受け取った。
「じゃあ浩和、戻って給食食べないと」
 俺は何かが気になるような気がしていたのでもう少し留まっていたかったが、カナに腕を引っ張られ、半ば強引な形で職員室を後にした。

* * *

 ちょうど食べ始めるタイミングで俺とカナは教室に駆け込むことが出来たのだが、それでも急いで食べ、食器を片付けた。掃除までのわずかな時間でもカナと事件について話し合っておきたかったし、カナも同じ考えだったらしく急いで食べていたからである。
「ちなみに、これと同じ事件って何件くらい起きているんだ?」
 俺が聞くとカナは、メモを取り出し返す。
「身代金を支払ったのが全国で五件、青森・千葉・奈良・鳥取・島根の各県で起きてる。一方威力業務妨害のみ、つまり身代金を支払ってない状態で立件されたのは十七回あるわ。北海道・宮城・東京・岐阜・香川で一回、神奈川・愛知・大阪・広島で二回、熊本で四回ね」
 そんなに起こっているとは、異常事態と言えるのではないか。
「何せ全国で同じような事件が起こってるからね。相手も警察に大きく絡んでるかもしれないわ。監察官室が介入してこなければいいけど……」
「カンサツカンシツ?」
「あれ、説明してなかったっけ? 警察官が不正を犯した時取り調べ等を行う部署、のはずだけど実際は処分を最小限にするために手を回す所でもあるらしいわ。それにキャリアの不正なんかはよほどマスコミが報道しない限りもみ消されるケースも多いって聞いたこともある」
 キャリア、で俺は引っかかっていた。何かと理由をつけてきて、まるで俺達が邪魔かのように扱って着た人物。
「警察庁のあの人──」
「警備局長?」
 俺の呟きに、カナが即座に反応した。しかし、すぐに首を横に振り言う。
「確かにテロは公安警察の担当、そして公安警察のトップがあのポストだけど、あの人の許には大量の捜査情報が日夜届いてるのよ? そんな中から特定の情報だけを抜き出すなんて、そんなこと……」
「不可能、じゃないだろう?」
「まあそうだけど……」
 カナは少し不満そうな顔をして俺を見つめてくる。そのまましばらく考える素振りを見せたかと思うと、再び首を横に振って言った。
「でも、警察組織には何万もの人間がいる。だから知り合った人ばかりを疑うのもどうかと思うわ。もちろん警備局長が神奈川の一事件で機動隊の出動があったということを知ってたのは不可解だけど、それだけで事件の重要参考人としてしまうのには無理がある。それを認めてしまったら、世の中には冤罪が溢れてしまうわ」
 チャイムが鳴り、掃除の時間へと入る。先週と同じ化学室へ移動すると、教師用の実験台には複雑な実験装置が組み立てられていた。近くにいた先生(多分理科の担当だろう)が掃除の監督そっちのけで解説してくれる。
「まずガスバーナーで試験管の先を加熱する。すると中の白い粉末──炭酸水素ナトリウム、いわゆるふくらし粉は分解して炭酸ナトリウム・二酸化炭素・水という三つの物質になる。二酸化炭素は試験管の口につながっているガラス管からゴム菅の中を通って、水槽の中に入れてあるガラス管の先から泡となって出てくるんだ。その泡の先に水で満たした試験管がくるようにすれば、ほぼ純粋な二酸化炭素を得ることが出来る。但し、加熱する試験管の口は少し下げ、火を止める時は水からガラス管を先に抜かないと、水が加熱部分に入って試験管が割れる可能性がある。因みに水の検出には塩化コバルト紙、二酸化炭素の検出には石灰水を使用するのだが、青色の塩化コバルト紙が桃色に変色したら水が存在することが判る。これの保管には基本的に塩化カルシウムの乾燥剤を使うが、同じく吸湿作用を持つものとして濃硫酸がある。不思議なことに、この二つの乾燥剤、どちらも水と反応して多量の熱を出す。だから乾燥剤には『水に濡らすな』と書いてあるし、硫酸を薄める場合は水に硫酸を少しずつ入れるよう指示されるんだ。一方石灰水、これも面白くて──」
 そんなこんなで、十分間の掃除の時間は過ぎていった。
 昼休みになると俺達は再び、職員室へ向かう。校長先生に頼んで校長室を使わせてもらい、カナは捜査情報端末で何やらメールらしきものを打っている。一通り打ち終わるとカナは端末を閉じ、俺に話しかけてきた。
「とりあえず田崎管理官にはさっきの推理を送っておいた。警備局長の件もね」
「え、でもそれは──」
 カナが否定したことではなかったか。そう言いかけたが、カナの微笑みに圧され、途中で途切れる。
「別に可能性がない訳じゃないから。それに、直接関わってないにしても黒幕という存在には成り得るわ」
 一応、俺の推理も考える余地はあるってことか。それよりも聞き慣れない単語がカナの口から出てきた。
「クロマク?」
「裏で間接的に手引きしてる人のこと。ただ本来この手の情報は各県警のSITから引っ張ってきた方がより迅速に、より正確に手に入るの。企業脅迫とかの威力業務妨害はそこの管轄だからね。けど、公安警察のように全国で統一された組織はないから、各都道府県で独自に接触する必要がある。それが実際に行われたとして、発覚しない訳がない」
「じゃあとりあえず、警察側の情報源は不明ってことだな」
「ええ。──本当はこんな話、ここでするのは危険だったけど」
 内廊下というべき通路を介して、校長室と職員室は繋がっている。通路と校長室との間にはドアが一枚あるがそれは薄板一枚。防音の役割を完全に果たす訳でもない。カナに指摘されて、初めて気が付いた。フォローするように、カナは付け加える。
「ドアの向こうに人がいた気配はなかったし、ドアから漏れ出すような大声を出してた訳でもない。だから大丈夫よ。機密事項だったらわたしが止めるしね」
 さすがカナ、というべきか。でも俺はそれがかえって心配になる。
「いつもそんなに神経を尖らせて、疲れがたまったりしないのか?」
「別に? 好きでやってる仕事だからね。わたしが希望したからこの仕事が続けられた訳だし、だからこそ挫折もしないと心に決めたの」
 今まで聞いたことのなかった、カナの決意。
「サポート体制が整ってた愛知県警と違うから、個人の力量でカバーしなきゃいけないの。神奈川県警の体制が整い、浩和が立派なCPになり切れるまで、わたしは疲れたなんて言えないのよ」
 ここまで言われたら、カナのやり方を否定する訳にはいかない。
「あまり頑張りすぎるなよ」
 たった一言、俺はカナに言った。カナは無言で頷くと俺の右手を握り、
「じゃあ、戻ろっか」
 嬉しそうに、微笑む。そして校長先生に一言お礼を言ってから、俺達は教室に戻った。戻ると間もなく予鈴のチャイムが鳴り、廊下にいたクラスメイト達も教室の中に入ってきておしゃべり。そんな中俺は天木に声を掛けられ、教室後方のロッカー前で、始業式の時のように話し始めた。
「今までどこ行ってたんだ?」
「いや、ちょっとな」
 まさか本当のことは言えまい。俺が誤魔化すと
「話したくないならまあいいや」
 そう言ってきたので、話の本筋ではないようだ。
「で、お前はその、安江さんっていうんだっけ? 彼女とどういう関係なのか聞きたいんだが」
 続けて出た質問にも、俺は答えられない。正直に言う訳にもいかなかったし、上手く誤魔化せる自信もない。そんな俺の様子を察してか、
「まあ、答えられないなら答えられないでいいんだけど」
 それ以上追及してこない。天木のいい所は、こんな所である。
「ところでさ、」
 と、天木は話題を切り替える。ここからが本題らしい。
「確か次の授業は、文化祭のクラス発表について決めるんだよな?」
「ああ」
 文化祭があと四日と迫っても、未だに決まっていないグラス発表の内容。ついにクラス担任はしびれを切らし、自らの授業を潰してでも決定にこぎ着けることにしたのだ。準備の都合もあって、何が何でも今日、決定する。
「そこでさ、一つ思いついたんだが『日本のアニメ文化』について展示するのは名案だと思わないか?」
 自身の趣味をクラスにまで持ち込む気らしい。俺は呆れつつ
「さすがにそれは却下されるぞ」
 と忠告するが、
「いや、意外に賛同者が出てくるって」
 天木に諦める様子はない。まあ、何も有力な案が出なかったら採用されるかもしれないが。
 ところが五時間目。あっさりと天木の案は通ってしまった。有力な対案が出なかった(劇は台詞の暗記が、模擬店は保健所への届け出がそれぞれ間に合わないとの理由で却下)のもあるが、全ての構成を天木自身が責任を持って行うと言ったことや、担任が意外に乗り気だったことも大きい。決定直後から早速、展示構成について説明している辺り、既に天木の中では構想が固まっていたようでもある。それなら調査に無駄な時間を費やす必要もなく、カナにとっても満足な結果のようだ。現に顔がそう告げている。
 その後展示内容などの詳細も天木の案がそのまま通り、今までが嘘に思えるほどの超特急で準備は進み始めた。紙の展示と映像の上映を組み合わせるようで(映像は天木が一人で編集するらしい)、男子陣は天木がその場で作った下書きを基に模造紙へ解説の文章を書き込み、女子陣は天木の持ってきた画集などを素材にイラストを描いたり衣装を作ったりしていた。内容を覗いてみれば「鉄腕アトム」から最近のアニメまで網羅しているようで(必然的か、最近十五年に偏ってはいるが)、文化祭の展示としては申し分ないように思われた。ただ少しばかり天木の個人的趣向も混ざっているようで、「深夜から劇場へ──進撃するアニメ」というコーナーもある。ショートカットのギター少女と、フリルの着いた服を着たピンク髪の少女が大きく描かれ、周りには「ただの人間には興味ありません」「ボクと契約して、魔法少女になってよ!」「ホビロン」「もう、叶っちゃってたみたい」「ワイルドに吠えるぜ」などのフレーズが書き連れられる予定らしい。天木に聞くと、
「だって、必要でしょ!」
 としか言わなかった。まったく、誰が彼の暴走を止めることが出来るだろうか。
 五時間目終了のチャイムが鳴ると、正式に学校側で設定された文化祭準備の時間帯となる、今日から三日間、六時間目がカットされ準備の仕上げをすることが可能である。前日の金曜日は五時間目もカットされ、組み立てという最終段階を行うことが出来るよう、配慮されていた。今日のペースでこのまま行けば、このクラスでも当日に間に合う可能性は高いと思われる。
 その後俺はカナに連れられ、学校内を巡ることとなった。校舎の隅々までしっかり確認しておきたいらしい。時折立ち止まって防火扉などをチェックしながら進み、一階から二階、二階から三階へと歩く。校舎内を一通り回り終わったタイミングでちょうど無線が入ったらしく、カナは立ち止まった。襟からリモコン兼マイクを引っ張り出し、小声で交信した後、
「田崎管理官が到着したみたいだから、職員室に行くよ」
 そう俺に言った。

 職員室には刑事らしき人物がいて、荷物を持って校舎内の会議室に移動するよう声をかけてくる。その指示通り一旦教室へ戻る。
「ごめん、天木、急用できた」
「いいよ、行ってきな」
 一言天木に詫びを入れてからカバンを持って南校舎一階西寄りにある会議室へ。引き戸式のドアを開けると一番奥に田崎管理官が座っているのが確認出来た。その両脇を背広姿の刑事が固めている。「ロ」の形に机が並べられているのは、おそらく会議用か。そんなことを考えていると、田崎管理官が口を先に開いた。
「今日から九月末まで、つまり犯行予告の期間中、ここに現場本部を置くことになった。捜査員は捜査二課より五名、それに君達だ。連絡手段はこれまで通り捜査センター無線を使用、情報共有も同端末で行う。情報共有レベルは原則六とする。CP以外の出入りは目立たぬよう、非常口を活用して行う。以上」
「了解です」
 カナは右手を額に当て敬礼の動作を取る。俺もそれに倣って敬礼すると、
「だいぶこの仕事も板に付いてきたようだな」
 管理官が、今度は俺に対して声を掛けてきた。
「……そうでしょうか」
「今の敬礼を見たって、ずいぶん様になっている。それにあの報告、警察庁の警備局長という、それこそ地域部長でも滅多に会えない人が自分から来るなんて明らかにおかしい事態だよ。警察官なら、疑って当然だ」
 一呼吸置くように咳払いをして、管理官は話を続ける。
「実は彼についてマークしていた時期があってね、愛知県警の捜査二課《にか》を使って疑惑を洗い出す作業を秘密裏に進めていた時期がある。二課長からそれが漏れ、監察官室からストップがかかったがな。結局何も得られず強制的に捜査終了となったわけだが、あの時も裏で犯罪組織との繋がりがあるという情報は存在していた。調べてみる価値はあるよ」
「っていうことは、もう捜査は始まってるんですね」
 カナが尋ねると、管理官は首を横に振る。
「いや、二課にも通常捜査があるし、これ以上は頼めないんだ。東京地方検察庁特別捜査部《とうきょうちけんとくそうぶ》に持ち込むためには確証が必要だし、警視庁に捜査協力を依頼するためには二課長から申し入れなければならない。しかし慣例に従って大抵の二課長はキャリアだし、するとどこから情報が漏れてしまうか……」
「つまり、この事件が終結し次第、そちらの調査へ回ると?」
 カナの問いに、管理官は再び首を横に振った。
「終結、というよりヤマを過ぎたらだな。調査自体は今も続けているし、本格的な捜査は裏付けに紛れた方が、都合がいい」
 何故だか理由が判らない俺は、カナにそっと聞く。
「裏付け捜査では解決前に比べて人員が必要ないからよ。そんな中で『捜査員だった』人間が別の捜査をしてても、傍目には区別がつかない」
 確かに余程の事情通でなければそんな区別はつかないだろう。田崎管理官も一度潰された疑惑ゆえ、慎重に慎重を重ねているようだ。
 一区切りを付けるように、管理官は思い出話を語る。
「最初、この話が副本部長から来た時には、ただのキャリア間の争いだと思ったさ。でも説明を受けているうちに、その人がそんな薄汚い理由ではなく、『不正は暴かれる必要がある』という信念だけで動いていると判ったよ。まさに、警察官の上に立つべき警察官という感じだったよ」
「いいですね、そんな上司って」
 田崎管理官も、そんな「警察官の上に立つべき警察官」の一人だと思うのは、俺だけだろうか。

* * *

 その後カナと管理官を中心に確認と報告のやり取りを繰り返しているうちに、下校時刻十五分前のチャイムが鳴る。管理官達はこの後、学校内に監視カメラを設置する作業に当たるそうで、その準備を開始し始めたのを機に、俺達は家路につくことにした。最後に管理官は、カナの持っているものと同型の「捜査情報端末」と、それの付属品一式の入った箱を俺に渡し、
「君も持っていた方がいい」
 そう一言言って作業の準備を始めた。俺はお礼の言葉を返し、カナとともに会議室を出る。同じタイミングで「吹奏楽部の三人」が階段を降りてきていて、お互い少し、びっくりした。
「今日来なかったのって、やっぱり仕事?」
 最初に口を開いたのは、やはりミキ。
「ええそうよ」
 と返すのも、やはりカナ。
「詳しくは聞きませんが、一般人が多数出入りする文化祭だからこそ、忙しいのでしょうね」
 そんな大人の言動は渡辺先輩で、
「ボクも手助けになるなら、協力するよ」
 いわゆる「ボクキャラ」の木村先輩。
「お気持ちだけ受け取っておきます」
 カナは木村先輩に対してそう言葉を返し、微笑んだ。どの仕草は「CP」という仕事から解き放たれた、自然の中学生の姿に見える。それは藤枝・森岡両先輩と話していた雰囲気とも似ていて、しかも俺と話している時には見せない顔。
「いつも通り、五人で帰ろ?」
 ミキの提案で、俺達は靴に履き替えた後五人で学校を出た。会話が途切れることのないカナ達四人に付いていきながら、俺は考える。カナはどうして、俺に対し素直な感情を、直接的には出さないのか。
 カナ達と別れた後、俺を心配したのかミキが話しかけてくる。
「何かあったの、浩和?」
 少し躊躇ったが、正直に俺が感じている疑問を口に出す。
するとミキはうん、と頷き言う。
「カナちゃんとは仕事上でのつながりが大きいから、そういったものも見せづらいんじゃないかな? カナちゃんは先輩って立場になる訳だし、ただでさえ男子と女子ってことなんだから。……わ、私と浩和はその、幼なじみなんだし気兼ねなく話せるけど、そういった昔からの関係もないでしょ?」
「ああ、確かに」
「浩和はその……カナちゃんと仕事以上の関係になりたいと思ってる?」
 少し俯きながらミキは尋ねてきた。でもその問いに、俺は答えを出すことが出来ない。出そうとしても心の中でもやもやしていて、はっきりとしたものがないのだ。確かにカナとはほとんどの時間、CPとしてしか向き合って来なかった。しかしこれだけ長い時間を二人に過ごして来て、何も感じない方がおかしいのだ。朝からやってきて席も隣り、帰りも途中まで一緒という状況で、何も感じられずにいられた時間が俺の場合一週間と少しだったという、それだけのこと。でも俺はその、感じたものが何なのか、よく解らない。そんな感じで思考がループしている。
「解らないなら解らないでいいよ。……手遅れにならないうちに答えを見つければいいんだから」
「え?」
 今度はミキの言っている意味が解らなかった。
「結論が出る前に相手がいなくなっちゃうのが一番悲しいから。──あの物語のように」
「あの物語って?」
「いや、何でもない!」
 意味深な言葉をごまかすように、ミキは強い口調で言う。「あの物語」というのが何かということも気になったが、尋ねてもきっと答えてはくれまい。といってこれ以上話を展開させようもないので、俺の方から話題を切り替えることにした。
「そういえばこの前ミキは『机上詩同好会』が好きって言っていたけど、やっぱりクラリネットが出てくるからか?」
 ミキは何故か驚いた様子だったが、少し間を空けて返してくる。
「まあ、──一番初めはそうだったけど今はそれだけじゃないかな。『机上詩同好会』で検索してみたことがあるんだけど、その時同じ作者が書いた『小説版』っていうのがあった。それは英語の教材ではなかった、話と話の間を埋める物語もちゃんと書かれてたの。一応二人の名前も決められてたし、最初の展開に至るまでの物語も入ってた。確かに、教科書に入れられないような部分もあったよ、でもこっちの方がより面白い、そう感じたの。浩和にも読んでもらいたいから詳細は語らない。でも私はこっちの方が好きになれる、浩和もたぶんそうだと思う」
「じゃあ今度読んでみるとするか」
 そこまで言われたら、読んでみるほかない。それに俺自身、読んでみたくもなった。その言葉を聞くとミキは嬉しそうに微笑み、
「ぜひそうして!」
 たちまち太陽のように明るくなった。やっぱりこの方がミキらしい。
 俺の家の玄関前でいつも通り別れ、ミキは自分の家の方へ帰っていく。
 今頃思い出したのだが、「机上詩同好会」の話をする時はカナも嬉しそうだった。教科書を読む限りこれは悲しい終わり方なのだが、意外にそれとは真逆の感情を抱かせるかもしれない。
 翌日水曜日の朝にこの会話をカナにも振ると、
「うん、小説版があることは知ってる。あの時はほら、英語教材としての『机上詩同好会』だったからね。わたしも本当は小説版の方が好き。ストーリーがはっきりしてこの物語の動きが生み出されてる所が魅力かな。『起』が実は『承』の前半に当たっていたり、こちらの方が自然なストーリーだと、わたしは思うわ」
 担任にも「起・承・転・結」が各章(正確には「幕」らしいが)に対応して構成された物語だと教えられたし、書店で解説書を立ち読みしても同じような内容だった。あくまでも「授業」では主に本文中で表現されていることについて扱うので、それは仕方がないことかもしれないが。
「それに少女の心の動きがはっきりしてるのも、小説版のいい所かもね。本当、一度読んでみて」
 そんな話をするカナこそ、俺は自然な様子に感じられた。

* * *

 水曜日は廊下や教室にちゃんと監視カメラが設置されていることが確認出来たこと、会議室にそれを運用するための機材が入れられていたことのほかに大きな異変はなかった。いつも通りの学校生活、事件なんて起きないのではとも感じてしまう。
 木曜日になると「特殊急襲部隊」、いわゆる「SAT」の「小隊長」たる人物が学校に来た。万が一突入するといういう事態になった時に備え、校舎の構造をこの目で把握しておきたいらしい。だが、昼間の学校でそれをするのは目立ちすぎる。生徒がいる時間は監視カメラの映像と俺達CPの口頭による解説に留め、夜になったら実際に校舎内を案内するという計画を管理官は立てた。小隊長もその方がいいという。天木に断って放課後はほとんどそちらに専念することになった。突入に必要なのか、小隊長の質問も変に細かい。階段の段数は幾つなのか、西側渡りから北側校舎に入ると何歩で廊下なのか、など。そんなデータはカナでも解るはずはなく、そういった調査はほとんど夜になってから実測するという形に落ち着いた。
 金曜日、この日は五時間目から授業がカットされ半日文化祭の準備に当たることになっている。文化祭が待ち遠しいのか少々クラス全体が浮き足立っているほかは問題なく授業は進み、給食・掃除を挟んで本日のメインイベントとともいえる文化祭の最終準備が開始された。俺達の教室も大きく机が移動され、仕切りが作られていく。天木が描いた構想図によると後ろの扉が入り口となり、そこから右、左、右、左、そして右と折れ曲がりながら一番奥、窓側まで展示スペースが続いている。窓側は展示兼待ち合い用の細い通路が教室正面まで延び、そこから右へ行くと映像の上映空間が教室の半分弱を占めている。前面の黒板に模造紙を貼り、プロジェクターで映すとのことで、「三方の壁は天井まで延ばす」とある。上映が終わったら観客は入って来たのと対角線側にある出口から出ると左に曲がり、まとめとなる展示を経て前の扉から教室を出るという寸法だ。それがまた大掛かりで、教室内に支柱を立てたりしなければならなかったが、さすがに責任者がいるからか、一つの無駄もなく作業は進んでいく。一週間弱で仕上げたとは思えないクオリティーの高さに、当日はなるだろう。
 そんな作業を手伝っている最中、俺はふとどこからか怒鳴り声を聞いた気がした。とっさにカナの方を振り向くと、カナも少し考えている様子を見せた後俺の方へとやって来て、
「これは生徒同士の喧嘩じゃない。正門辺りで二つのグループが言い争ってるわ」
 そう耳打ちしてくる。
「行く必要は?」
「あるわ」
 カナはそう言い残し、スーツケースを持って教室を出て行く。カナがそう言うなら仕方あるまい。天木に何度目か詫びを入れてから俺も正門へと向かった。
 正門では何故か背広姿の、刑事とも思われる集団が二つに分かれ時々怒鳴り声をあげながら
「脅迫事件は刑事部の管轄だ!」
「いや、これはテロ事件だから公安の管轄である!」
 そんな感じで文字通り「言い争って」いた。もちろん目立つこと極まりなく、見物人、いわゆる「野次馬」も続々と集まってくる。カナは呆れた様子を見せながらも
「あのまま放ってはおけないわ。とりあえず田崎管理官に連絡を入れて対応策を練るわよ」
 何とかして止めなければならないらしく、捜査情報端末の無線で田崎管理官を呼び出している。しばらくするとどこからともなく白バイや白黒パトカー二十台程が現れ、二つの集団と野次馬、全てを同時に引き離した。野次馬はともかく、背広姿の集団はさすがにまずいと思ったのか素直に連れていかれる様子。すると野次馬達も自然に去り、正門前は平穏を取り戻した。
「管理官を通じて『交通の妨害となっている』との名目で署長命令を出してもらってね、交通課や地域課、それに自動車警ら隊の制服警察官を使って排除したっていう形。管理官は刑事部の人間だから止めることも出来ないし、わたし達が行っても多分無駄だったからね」
「署長って、そんなに権限があるのか?」
 疑問を口にするとカナは頷き、
「もちろん。特別捜査本部の本部長は形式的にだけど署長が就任するし、階級的には大概警視正だからその地位は捜査一課長と同等、もしくはそれ以上よ」
 誇るようにそう応える。
 その後俺達は教室に戻り、文化祭の直前準備の作業を再開した。仕切りの壁も無事立ち上がり、説明用の模造紙や展示品を並べる。映像も無事に流れることを確認した所で、チャイムが鳴る。文化祭準備終了の合図、つまり俺達のクラスはギリギリ間に合ったということでもある。ほっと一息、といった所だろうか。
 その後荷物を持って会議室に寄ると、

 田崎管理官が机に置かれた液晶ディスプレイを見て、唸っていた。
「どうかしたんですか?」
 カナが聞くと管理官は悔しそうに答える。
「明日の文化祭で、各教室に設置したカメラはほとんど意味を為さないことが判明してね、まあ学校側を説得するために全教室に設置した訳だから必ずしも無駄とは言えないが……」
 ディスプレイを覗くと確かに、かなりの数の教室内に仮設の壁が設置されており、それに遮られて監視カメラの死角のだいぶ広くなっていた。
「今日の夜も実測調査か……。ここまで仕事があるとは思っていなかったよ」
 火曜日は監視カメラの設置、昨日はSAT小隊長の事前調査と、管理官達の夜は忙しそうで、現に田崎管理官も少しやつれているように思える。張り込み捜査になれている(カナ談)捜査二課の刑事達は大丈夫そうではあるが、これも九月末までとなると大変なのだろう。対してCPは自然に学校にいることが出来るため割合楽ではある。ただ、いざ事件現場となると、俺には少し荷が重すぎる気がした。
 では、とカナが声をかけて部屋を出て行こうとすると
「あ、そうだ。君達に頼みたいことがあったんだ」
 思い出したように田崎管理官は書類の束を差し出す。
「学校側から借りた校舎の設計図と二日間の報告書、それらを浜浦署の特別捜査本部《とくそうほんぶ》に持っていてほしいんだ。出来れば直接、捜査一課長に渡してほしい。午後十時と翌朝五時には定例の捜査会議もあるから泊まっていってもいいが。鈴木くんはお母さんが刑事だからいいとして、安江さんは──」
「今日明日明後日と、両親が急用で出かけているので大丈夫です。かえってその方が安心出来ると思いますし」
「なら二人とも大丈夫だな。地域部長の方には僕から連絡しておくから。一旦家に帰って荷物を整えてから、バスを使って浜浦署へ行くといい。バスは桜町駅から出ているはずだ。ただ特別捜査本部《とくそうほんぶ》の指揮権は今、野並《のなみ》管理官が握っている」
 俺はその名を知らなかったが、カナは知っていたらしい。えっ、と驚きの表情を見せる。
「野並管理官、といえば各地の県警で徹底的な所轄差別をするうえに、いざ問題が起きれば責任を擦り付けるキャリアとして有名でしたよね?」
「そう、『あの野並』だ。CPについてどう思っているかは判らないが、十分注意しておいた方がいい」
「解りました」
 そしてカナが俺の家に寄ってから一緒に浜浦警察署に行くことを約束して、一旦各自の家に帰ることにしたのだった。

* * *

 カナはどうせ寄るからと、明日学校で必要なものも別のカバンに入れて俺の家へ持って来た。それを置き、カナと一緒に桜町駅へ向かう。桜町駅北側、CPになった日にも待ち合わせたロータリー。そこには幾つかバス停があるが、カナはその一つに真っすぐ向かう。JR浜浦駅経由・浜浦市役所ゆき。「市役所の近くに警察署があるから大丈夫よ」らしい。
 バスの時間までは十分ほど余裕があったので、俺達はバス停に設けられたベンチに座っていることにした。しばらくすると、カナが話しかけてくる。
「前にも言ったかもしれないけど、この蛯尾浜の街って八白に似てる所があるなって感じる。街の北側に自然公園があったり、東西に鉄道が走ってたり、規模は小さくてもCPってものがあったり。八白だってつい最近までは警察署がなかった。細かいことをいえば、蛯尾浜市は比較的新しい市町村合併で出来た街だけど、それでも」
 生まれ育った「八白」という街が、カナはやはり大好きなのだ。カナが俺に自然な様子を見せるのもやはり、それに関連してだけ、である。
「そこまで言うなら一度、その『八白』って所に行ってみたい気もするな」
 それは、本心からだ。話を合わせて、ではなく。
「いつか機会があったらね」
 カナは微笑む。
 その後バスに二十分ほど揺られ、終点「浜浦市役所」で降りた。そこから歩くとすぐに、淡い水色をした建物が見えてくる。敷地内に何台も白黒パトカーが停まっていることからして間違いない、浜浦市と蛯尾浜市を管轄する「神奈川県警浜浦警察署」だ。
 市の名前が示すように、この警察署の裏手は道路を挟んで海岸になっており、磯の香りが漂ってくる。この一帯の海岸が本来「蛯尾浜」と呼ばれていたはずで、それが「蛯尾浜郡」の由来となり、海のない「蛯尾浜市」を誕生させたことにつながっているのだ。
 警察署の建物に近付くと、まず立ち番の男性制服警察官が俺達を止めた。夕方、といっても夜に近い時間に中学生が訪ねてくるのを不思議に思ったのだろう。まして今はまさに中学校関連の特別捜査本部が置かれているとなると、止めない方がおかしい。
「県警地域部子ども課準備室の安江と申します。届け物の書類及び明日の打ち合わせのため参りました」
 そう言いながらカナは警察手帳を胸ポケットから取り出し、警察官に見せた。俺も同じように見せる。
「失礼しました! 特別捜査本部は新庁舎一階の会議室です!」
 彼は慌てるように言って、背筋を伸ばして敬礼をした。カナと俺はそれに軽く敬礼を返し、建物内へと入る。玄関を入るとすぐに新庁舎への矢印があり、それに従い左へ進む。その後廊下は左、右へと曲がり両側が壁に囲まれた道へと続く。左手には所々扉があって、カナは四番目の扉で立ち止まった。そこには何故か、何も書かれていない、書き初めに使うような細長い紙が入り口の所に貼られている。少し考えれば、これはおかしい。この部屋に捜査本部があるとカナは確信したようだった。
 軽くノックをし、カナは返答を待つ。しばらくすると背広姿の刑事がドアを開け、
「何の用ですか。名前と階級、所属を」
 事務的に尋ねる。
「地域部子ども課準備室の安江 香奈・子ども警官です。彼は同じく鈴木 浩和・子ども警官。田崎管理官より捜査一課長宛の捜査書類を預かり、また明日の行動方針について確認するために参りました」
 カナは持っていた封筒を示す。それを見て刑事は、
「どうぞ」
 と、一旦ドアを閉める。カナがそれを手前に開け、俺達は会議室内へ。
 会議室は主に三つのエリアに分けられる。一番手前に窮屈に椅子が並べられた長机が並び、コピー機を挟んでノートパソコンがそれぞれの席に置かれ、椅子の配置にも余裕がある長机の群、デスクトップ型のパソコンや大机、そして一番奥に、こちら側を向いて配置された長机が並べられていた。
 壁には一定間隔ごとに液晶ディスプレイが掛けられていることに加え、一番奥には大型のスクリーンが設けられ、様々な映像や文字が映像装置の画面上を飛び交っている。そんな部屋を奥に進み、中央でただ一人、頬杖をついていた背広姿の男性の前まで来ると彼は一言、
「中学生がこんな所に何の用だ」
 そう言い放った。それでもカナは冷静に、入り口で刑事に言った通りのことをそのまま答えた。すると、
「じゃあ、その書類」
 と、彼は手を差し出してくる。しかしカナは
「捜査一課長本人に渡してほしいと、田崎管理官に言われました」
 書類の入った封筒を渡そうとしない。
「今、一課長は不在だ。代理は私、野並管理官だが?」
 俺は名乗られてやっと、彼があの「野並管理官」だと理解した。
「捜査一課長はいつ、こちらにいらっしゃるか判りますか?」
 あくまでもカナは、直接捜査一課長に渡すつもりらしい。だが野並管理官は
「だから、私が渡してやると言っている!」
 半ば逆ギレ気味に、カナから強引に封筒をむしり取ろうとしてきた。無論カナは奪われまいと抵抗する。その様子を見かねて
「野並管理官、やりすぎです」
 刑事と思われる女性が二人の間に割って入った。しかしそれでも野並管理官は封筒を奪おうとしている。ついには部屋内にいた全員が集まって来て
「管理官、やめて下さい!」
「管理官!」
 口々に言い出した。さすがに数には対抗出来ないらしく、カナに伸ばしていた手を離す。椅子に座ると再び頬杖をつき
「……今日の捜査会議に出席の予定だ」
 そう、呟くように言った。カナは
「ありがとうございます」
 あくまでも丁寧に、お辞儀をする。野並管理官はさらに気まずくなったようで
「……用が済んだのなら早く帰れ」
 そう言い放った。しかしカナは怯まない。
「今日はその、捜査会議に出るつもりで来たのですが」
「は?」
「明日は文化祭、一般客の出入りが非常に多く、一番警戒すべき日でもあります。行動方針を確認するため捜査会議にも出席したいのですが?」
 野並管理官は俺達を一瞥し、
「駄目だ」
 と一言だけ言った。当然、カナは反論する。
「所轄より近い立場のわたし達が決められた方針を守れなかったら、現場は混乱してしまいます。そのような事態を防ぐため──」
「ちょっといいかしら?」
 そんなカナを途中で止めたのは、先ほど最初に管理官を止めた女性だった。そして小声でカナに忠告する。
「管理官は今回の事件の捜査会議で、所轄を一切排除しているのよ」
 それを聞いてカナは、言っても無駄だと悟ったようで、
「では捜査一課長に書類を渡したら、わたし達、帰りますから」
 こう言い放つ。野並管理官はそれに対して何のアクションも返さない。俺の腕を引っ張って会議室を出ようとした時。
「──捜査一課長!」
 時刻にして午後六時五十七分。捜査会議に出るだけなら明らかに早い時間に、捜査一課長は姿を現した。カナから書類の入った封筒をもらうとその場で開け、すぐに目を通し始める。そして
「木下君」
 と、先ほどの女性刑事を呼ぶ。
「この書類──仮眠室の利用届を警務課に。あと、今夜と明日の捜査会議には所轄も参加するよう伝えてくれ。もちろん、CPもな」
 カナは嬉しかったに違いないが、しかし表情を崩さず
「了解しました」
 とだけ言い、俺を引き連れ会議室を後にする。行きの廊下を戻り、玄関までたどり着いた所でやっとカナは立ち止まった。
「そっか、だから本人に直接渡してほしかったんだ」
 何が、なのか。俺はそう聞く。
「どうして捜査一課長本人に渡してほしかったかよ。野並管理官に渡してしまえば必ず中身を見るから、CPが捜査会議に出席する話もうやむやにされてしまうかもしれない」
 カナは話を続けようとして、何かに気付いたかのように突然黙る。しかし俺は、カナの言いたかっただろうことについて予測出来ていた。きっとあの封筒には警備局長についての報告も入っていて、キャリアである野並管理官にはその件について知られたくはなかったのだろうと。

* * *

 捜査会議までの間を利用して、俺達は夕食を取ることにした。あいにく署内の食堂は既に閉まっていたが、海沿いからJR浜浦駅にかけては浜浦市の中心街ということもあり、警察署周辺には数多くの飲食店が立地している。カナはどこにしようかと迷っていたが、結局値段も手頃な近くの喫茶店になった。というのは玄関先で二人して考え込んでいた所にたまたま、浜浦署の刑事である俺の母さんが通りかかり、それなら、と行きつけの所を紹介してくれたからである。外装、そして内装も古くから営業している感じで、馴染みの客が足繁く通うような、そんなお店だ。迷った末、二人ともメニューに「定番」と書かれていたスパゲティを頼むことになった。料理が来るまでの間、カナは先ほどの管理官のように頬杖をつく。しかしその姿に、彼のような憎たらしい感じは覚えない。お互い無言で時間が過ぎ、そのうちにウェイターが料理を持って来たが、それでもカナは会話を振って来なかった。そう言えば、まず口を開くのは大抵、カナの方だ。距離的にはミキと同じように感じることもあるというのに、不思議な感じだった。といって今、俺が振ることの出来る話題も皆無なので、この場で話しかける訳にもいかない。BGMとして流れるクラシック音楽と食器同士が触れ合う音だけが、この場を支配し続けていた。
 無言のまま食べ終わって会計を済ませ、俺達は浜浦署に戻った。ゆっくりしたつもりだったが、それでも時刻は午後八時半を過ぎた所で、捜査会議まではあと一時間半もある。玄関を入って右、本庁舎一階のロビー兼相談窓口コーナーの待ち合い椅子にカナと一緒に座っているとナイスタイミングというか、俺の母さんがまた通りかかった。
「あら浩和、ご飯は食べたの?」
「うん、食べたけど」
「で、確か──安江さん。彼女とここで時間を潰してるってことよね?」
「まあ、そうですけど……」
 今度はカナが返事を返す。それを聞くと母さんはぽん、と手を打ち、
「じゃあ、刑事課にでも来ない? 私達は通常業務だから忙しい訳ではないし、皆子ども警察に対して興味を抱いているから、きっと歓迎してくれると思うな」
 と提案。カナは
「いいですよ」
 と言って微笑む。そして急に立ち上がり
「さあ浩和、行くよ!」
 俺の腕を取り、勢いよく引っ張って来た。さすがについていけず、俺は勢い余ってカナの方に倒れ込む。
「──え? ……ひ、浩和……」
 「か弱そうな」カナの声が耳元から聞こえ、俺は慌てて起き上がった。頬を赤らませ、カナは椅子を背に力が抜けた様子で俺を見上げている。その表情は不安の中に少しだけ、嬉しさが混じったような。
「ご、ごめん!」
 俺が謝ると、カナは少し考えるような仕草を見せた後
「べ、別にいいけどね……」
 小声で呟く。
「何が?」
「な、何でもない! さあ、刑事課に行こ!」
 慌てるように「いつも見ているカナ」に戻り、誤魔化した。様子を見ていた母さんも
「そ、そうよね、さあ早く行きますよ」
 と、急かすように言う。
 刑事課は本庁舎一階の、奥に入った所にあった。この前入った捜査一課より狭いのは当たり前だが、壁際に大量の書類がうずたかく積まれていることが余計、狭く感じさせる。
 母さんに連れられて俺達は課内の応接室に入り、ソファーに座った。カナいわく、任意同行などで事情聴取が必要な場合、慣例でここを使うという。中にはテレビも設置されており、例えるならば小さい校長室といった感じか。
 窓は二面に取られており、一方は刑事課、もう一方は外とガラスを挟んで繋がっている。外へと取られた窓からは会議室のある新庁舎が見えるが、耐震補強用の鉄骨を挟んだ所に見える水色の壁に窓は存在するものの、そこにはガラスの代わりに白い板がはめてあってその役割を失っているのが確認出来る。そのことはカナも気付いたようで、多分捜査情報共有システムの導入が原因だろうと教えてくれた。
 そんな話をしていると、見覚えのある男性刑事が入ってくる。
「あ、吉永刑事!」
 カナが驚いた様子で言った。そう、CPとの関わりも深い吉永 充・警部補である。その吉永刑事の後ろから母さんがやって来て、
「知ってるとは思うけど、彼が私の上司、強行犯係長の吉永刑事よ」
 と、改めて紹介した。
「係長だったんですか!」
 カナはさらに驚きを隠せない様子。
「で、係長、聞きたいことって何です?」
 母さんが促すと吉永刑事は
「では失礼します」
 一回咳払いをして、間を取る。
「先例における子ども警察官は所轄署に所属し、署内各課と連携して業務を行ってきたと聞いています。しかしながらここ神奈川県警の場合、子ども警察官は本部地域部に所属しているので、所轄署や刑事関係の部署との連携はどうなるのか疑問です」
 俺には答えることが出来るはずもなく、母さんも「答えられる訳がないでしょ」と言いたげな顔をしている。いやいや。
「子ども警察の組織モデルは二種類あって、そのうち今年から始まった岩作市《やざこし》での組織構成が、神奈川での事業モデルとなっています。地域部に所属しているのは形式的なことで、実際には事案によって多方面、場合によっては公安などと連携することもありえます」
 カナはすらすらと、澱みなく答える。俺にとってそれはカナらしい部分だと思っているのだが、当然母さんは驚いた様子を見せた。聞いた本人も驚きらしく
「よくそこまで知っていますね」
 と、感心した様子。
「では、所轄と子ども警察官の連携というのも──」
「ええ、当然必要です。ただ、神奈川CPはやむを得ず県内系の無線を使っているのが現状なので、それこそ署外活動系無線《しょかつけい》で直接交信出来るようにしてほしいのが──」
 こうして、夜は更けていった。

* * *

「強行犯係、知能犯係、それにCPは捜査会議だ」
 ちょうど一週間前の威力業務妨害事件で、前半戦の指揮を取っていた刑事課長が呼び掛ける。それを聞き母さんや吉永刑事を始め、席に座っていた刑事達もぞろぞろと動き始めた。その列は迷うことなく、捜査本部の置かれた会議室へと到達し、俺達が先ほど入ったのと同じ、会議室後方の扉から中に入る。中では既に捜査幹部、捜査一課を中心とする本部刑事達が席に座っていた。刑事課長が正面左側の机に向かったほかは皆、コピー機を挟んだ所に並べられた長机へと座っていった。本部刑事達が三人で一つの机を共有するのに対し、同じ種類の机に関わらず所轄刑事は五人で一つ。近隣署からの応援などもあるらしく、席自体に余裕があるように見えたが気にせず前から五人で詰めて座っている。既に慣例になっているようだ。
 俺達が入って来たことに気付いたのか、捜査一課長が立ち上がり、こちらへ向かってくる。それを、野並管理官が睨みつけるように目で追っていて、よっぽどCPを毛嫌いしているのが目に見えて判った。
 捜査一課長はカナに書類を渡し、
「田崎管理官の報告は君からしてもらう。そういう訳で、本部側の席に座ってほしいんだが」
 と頼む。カナは迷ったが、横にいた母さんも
「あなた達がいいなら、私達も気にしないように努めるだけよ。中学生の方が前に来たって、別にいいじゃない」
 と言ってくれた。
「なら、了解しました」
 捜査一課長はカナの肩をポン、と叩き
「では頼んだぞ」
 そう言った後、正面の机へと戻っていく。それを追い掛けるようにカナは俺の腕を引っ張り、本部刑事用に用意された五列分の机のうち最後列に腰掛けた。俺も一人分空けて横に座る。浜浦署の備品と思われるノートパソコンも置かれているがこれはまあ、触らない方が無難だろう。
「えー、それではこれより九月十五日における二回目の捜査会議を開始します」
 マイクを通じて捜査一課長の声が響く。単なる形式的な一言ではあるが、それは会議室中の空気を一気に緊迫させた。
「それでは野並管理官」
 捜査一課長はマイクを置く。代わりに野並管理官が立ち上がり、状況説明。
「今までは捜査一課刑事のみでこの捜査会議を開いてきたが、今回は田崎管理官の提言もあり、所轄やCP、いわゆる子ども警察官も参加させることとなった。この事件は先週金曜日と合わせて単なる脅迫・威力妨害事件のようにも思われるが、実際何が起こるのかは予想が出来ない。各々油断せず犯人検挙に結びつけるよう、私から努力を求める」
 ここで一旦、間を置く。
「なおこの事件はマスコミ各社と報道協定を結んではいるが、現在はネット経由で情報が拡散することも十分に考えられる。情報流出にはくれぐれも避けてほしい。私からは以上だ」
 ここまで言って、席に座った。これだけを聞いていると野並管理官は普通の、それこそ田崎管理官とも変わらないような指揮官だと思える。さながら「羊の皮を被った狼」と言った所か。
「では事件の初動状況について」
 捜査一課長が進めると、本部刑事席から二人の刑事が立ち上がり報告を始めた。
「九月十二日火曜日十二時二十分、学校側より一一〇番通報を受理。すぐにCP──今回出席の二人でもありますが──が犯行予告状であることを確認しています。証言によると予告状はポストに入っており、朝の時点では確認出来なかったとのこと」
「その後所轄刑事、鑑識を通じて現在|科学捜査研究所《かそうけん》に回され、詳細な分析をしている所です」
「では予告状について」
 するとまた別の刑事が立ち上がる。正面のスクリーンや壁に掛けられていた液晶ディスプレイは、一斉に予告状の写真を映し出した。
「文面は見ての通りですが、要点をまとめると予告状が届いた日──十二日ですが──から九月末までの間の犯行予告、十八日を期限とした身代金要求となっており、一般的に考えれば実質十九日から九月末までの犯行を予告したものだと考えられます」
「念のため番号を控えた一万円札九十六万円を準備してありますが、まだ未投入です」
「次に、科捜研から予告状の分析及びプロファイリング結果を」
 それには本部刑事席より前、デスクトップパソコンの置かれた席に座っていた人物がそのままの姿勢で答える。
「紙質は一般的に流通しているもので、メーカー等の特定は出来ません。また文字自体に滲みがあるのに対し印刷方式としてはトナーが使用されており、一度プリントしたものをコピーして送付されたようです。文字フォントは『メイリオ』ですが、これはウインドウズの標準フォントで、マッキントッシュにも導入可能となっているため作成環境の特定は出来ません」
「犯人は横浜市及びその近辺の高級住宅街に住んでいて、体型はやせ形、二十代後半。大学相当を卒業して大手企業の営業部に勤めており、部下をコントロール出来る地位にある。人との付き合いも多く、頭脳的。はっきりとした意見を述べる。以上がプロファイリング結果になります」
「では現在の捜査状況について、まず捜査一課から」
 報告は再び、本部刑事席に戻る。今回立ち上がったのは女性刑事だった。
「予告状が発見された前々日は警察による採証作業が行われており、それは前日深夜も同様でした。また当日朝にも新聞を取るためにポストが開けられていますが、その時にも異常はなかったとのことです。この証言より、この予告状が入れられたのは午前七時頃から通報直前までの間と思われます」
「この間不審者の目撃証言はなく、この事件についても内部犯行の可能性が考えられます」
「次に、潜入班及びCPから報告をお願いする」
 いよいよカナの出番。書類と捜査情報端末を持って立ち上がり、正面を向く。そこで書類に目を落とした。
「十二日火曜日から捜査一課管理官・田崎警視を長として学校内での潜入捜査を行っています。内部犯の兆候がある水島副校長を中心に、監視カメラによる行動確認を行っていますが今の所目立った行動を見せていません」
 ここまで言い終わると、捜査情報端末に視線を移した。そして続ける。
「また、来客の中に不審者は確認されていません。なお、CPが通常業務を続けています」
 自分達についての報告が非常に短い気がするが、それくらいしか言うこともない。カナが座ると、野並管理官が口を開く。
「では今後の捜査方針について。明日は文化祭という学校行事が当該校にて開かれ、人の出入りも激しい。犯行を実行に移すにはデメリットが多く、その可能性は低いと考えるのが常識ではあるが、念には念を入れ厳重に警戒に当たってほしい。CP・所轄は通常業務、その他は明日指示する。以上だ」
 言い終わった所で皆が立ち上がり、解散となった。
「解ってはいたけど、通常業務か……。何も起こらなければいいんだけどな……」
 カナも独り言を呟きながら立ち上がる。俺も何だか嫌な感じがしてならない。虫の知らせとでもいうのだろうか、森岡先輩が言い残したあの言葉が頭の中に浮かんでは消え、また浮かんでは消えを繰り返していた。