崩壊小説

2「電話」

 スクランブル交差点の真ん中。ふと、立ち止まる。人の流れはそのうち途切れ、車のクラクションが鳴らされる。対象は多分、自分だ。慌てて、横断歩道を走り出す。歩行者信号は赤い方が灯されていた。
 あの子がそんな過去を持っていたなんて。聞いたときはそれ以外思えなかった。訳が解らなくなって混乱したまま次の電車に乗って、でも彼女がどこで降りるのかは見当が付かなかったからとりあえずこの繁華街へ来て。今になってようやく冷静になれる。いや、冷静なのだろうか。
 携帯電話を取り出す。折り畳み式のそれを、開く。画面が点灯し、辺りを少しだけ照らす。でもその光は、街のあちらこちらにあるものには比べ物にはならない。
(そういえば、)
 ふと考える。考えてみる。しかし、よく解らなくなる。それは彼女に自分の考えを否定されたからだろうか。彼女は光り輝く存在だと思っていたのに、実は闇を持つ、そんな存在だったからだろうか。
 そして、電話をかける。
『……もしもし』
「ねぇ、法律が守るものじゃなくて使われるものだったなら、何がこの世界を守ってるのかな?」
 いきなり質問してしまう、自分は何なのだろう。誰かにすがりたかったのかもしれない。でもどうして、彼女に?
『そうね、損得、かしら』
 でもさっきの出来事があったからか、その答えは彼女らしいと感じてしまう。決してこの世は清らかじゃない、それを証明するかのような彼女の発言に。
「じゃあ何でボランティアなんてものがあるんだ?」
『自分の満足感とか、社会的評価が得られるからじゃない?』
 確かに、それは間違っていないかもしれない。例えそれが金銭的に充分なものでなかったとしても、満足を与えてくれるのがそれだと考えるのなら。
「じゃあさ、」
 続けて、聞く。
「法律が守るものじゃないんなら、何で人を殺すってことはいけないこととされているのかな?」
 比較的最近から何度も議論になっている問題。専門家でも頭を悩ませる問題。でも周りにいた人々が少し離れていった感じがした。うん、解ってる。それを疑うのは普通、おかしなことだということは。けど自分の考えのベースとなっていたものが、彼女によって否定されてしまったから、確認しておきたかった。
『人を殺すというデメリットを超えるメリットが、見つかりにくいからよ』
 なるほど、そう考えるのなら確かに「損得」がこの世界を守っている。彼女のおかげで闇に突き落とされたのに、その彼女が、自分を導いてくれる灯火になってくれていた。
「つまりメリットの方が大きければ、いけないこととはされないと?」
『そうよ。でなきゃ、戦争なんて起こせない』
 もう既に、彼女に感化されていた。ああ、カルト宗教ってのはこうやって始まるのかな。
「ねぇ、今から会える?」
『ヒロちゃんは私を否定したのに? そんな酷なことを、要求するの?』
 違う、否定なんかしていない。彼女の有り様を決して、拒否した訳じゃない!
「ただ現実ってのを見せられて、それでも人間として生きてるキミに魅せられて、呆然としただけだよ」
『本当に?』
「多分、ね」
 実際は、解らなかった。でも彼女の告白で、自分の価値観が変わってしまったことは確かだ。
『そうね、なら──』
 彼女が指定してきたのは、意外な場所だった。電話を切り、財布を覗く。大丈夫、交通費は問題ない。何か、お土産も用意していかなければ。
 彼女が指定してきた場所、それは彼女の自宅だった。住宅街の中の、普通の一軒家。もちろん初めて来る場所。住所は彼女の電話帳データに入っていたので、ケータイのアプリに案内してもらった。どうしてこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。そのデータがあれば、追いかけられたかもしれないのに。まあそれだけ、混乱していたということなんだけど。
 家の前に着いた。かかっている表札を見ても間違いないはず。彼女の名字だ。
 インターホンのボタンを押す。ピンポン、と電子音が鳴る。少し間が開いて、ガチャッ、と玄関のドアが開く。ああ、インターホンにカメラが付いているからか。てっきり音声で確認が入るものだと思っていたから、拍子抜けしてしまった。
「ようこそ、ヒロちゃん」
 彼女はちょっとだけ、微笑む。それだけで、嬉しかった。冷たく迎える金属製の黒い門扉を開けて、彼女の家へと入る。
 玄関には靴が一揃いだけ。左足用と右足用。つまり、この家には今、彼女しかいない?
「お茶、飲む?」
「いいよ、そんなの」
「そう?」
 彼女は残念そうに言う。あ、断らない方がよかったのかな。
「ならケーキ食べる? 余ってるから」
「うん、それなら食べるよ」
 今度は断らないことにした。しかし、お茶を飲まないでケーキだけ食べるのってどうなのだろう。何か不自然な気がする。
「わかった、用意する。ソファーに座ってて?」
 でも彼女は気にせずに、居間らしき部屋へと案内してくれた。
 その部屋は、ソファーとテレビ、そしてパソコンしかない部屋だった。しかもテレビは完全地デジ化後の今どきにまだブラウン管で、さらにほこりも分厚く被っている。長らく使われていないようだ。……テレビが使われていない? それはまた、珍しい。
「お待たせ」
 彼女がお皿に載せてケーキを持ってきた。おそらくリンゴのタルト。小さいのが、半分。包丁で切ったかのように、断面は荒れている。……ケーキが、余る? 何か違和感があった。でもその違和感が、解き明かせない。
 彼女からお皿とフォークを受け取るが、置く場所がなかった。仕方がないので膝の上へ。安定はしないが、仕方がないのだ。
「そういえば家族の人はお出かけ?」
「うん、まあそんな感じ」
 適当に誤魔化された気がした。まあいいか。フォークでタルトを小さく切り、口へと運ぶ。……甘い。リンゴは焼くと、非常に甘くなるというのは本当だ。
「おいしい?」
「おいしいよ」
 よかった、と彼女は言ってくれる。しかもその笑顔は眩しくて。闇に浸かった彼女なのに、眩しくて。
「キミは、食べないの?」
「後で食べるから」
「これって半分に切ったみたいだけど、本当に余ってた?」
「うん、半分くらいしか食べられないから」
 そういうことか。……か? 何かおかしいと思うのに、頭がぼーっとして何も考えられなくなってくる。まあ、彼女が笑ってくれるなら、何でもいい。
「……何か仕込んだ?」
「うん、睡眠薬を」
 うわぁ、正直に言っちゃったよこの子。でもいいよ。それが望みなら。
「じゃあヒロちゃん、おやすみ」
「おやすみ──」
 ……仕込まれているのが本当に睡眠薬ならいいんだけど。毒物じゃなければいいな。ドクツルタケとか、スギヒラタケとか、ベニテングタケとか。全部毒キノコだけど……。